amririn-nyan様、urokoの母様、kajia様

marumo552006-05-09

コメントありがとうございます。親族や家族間のケアや援助というのは、難しいものです。さらに「親へのケア」というのは、それまでの生活史からすれば、ある意味、社会関係(「助ける」「教える」」が逆転するという、その点だけをとっても抵抗のある作業ですよね。高齢者に対する援助については、それなりに社会的サービスもありますから、肉親としての社会的関係は可能な限り維持しながらも、第三者へあずけられる部分はあずけていくというのが定石ではありますが、それでもなかなか難しいですよね。
デイケアでは何もかもやってくれるのに、貴女はやってくれない」とのこと。つらい言葉のように聞こえますが、まあ、逆よりいいじゃないですが。と、少し気楽に考えた上で、さらに、このお母さんのコメントの言葉の意味とは、実際のところ、どういう「不満」なのか改めて考えてみるのもありかと思います。
「対人援助学」あるいは行動分析学的発想でいくと、「何もかも、自分の意思でやらせてくれない」という不満のほうが深刻です。デイケアセンターが、ほんとうに「何もかもやってくれる」のでしょうか。極端な例ですと、じっと座ってると、口に食べ物を入れてくれる(given)とか。こういう状態がずっと続くとそれはそれで耐えられなくなると思うのですが。(とはいえ、長い家事から解放されて「上げ膳据え膳」というのは、今なお日本文化の中では価値の高いものかも知れませんが、それでもそればっかりだとつらいと思います)。
一方、親に対して「自分でやってもらう」という内容が、つい「それ・・・をして!」のように、先行刺激優先の指示を出しすぎてしまう場合と、少し時間をかけても待っていて自分でできた場合に「さすが!」とか評価しながら支えるのでは、同じことをしても本人の満足度は変わりますよね。子どもには、ほめやすいんですけど、親を「ほめる」というのは、これまた、それまでの生活史からするとやりにくかいものですけどね。
いずれにせよ、不満の言葉はあっても「家では自分でやらなければいけない」という認識を持っておられることは、必ずしも悪いこととも思えません。
urokoの母さまの「そのトライアングルの中にいる、どの私も私であったことは事実であり、未だに悶々とした日々を送っています」ですが、「どの私も私である」と、きちんと御自分のことをモニターできておられる点がご立派だと思います。しかし、冒頭にも書いたように、可能な社会資源があればそれも利用して、ご自分のやりたい事のための時間は確保されればと思います。釈迦に説法ですが。

kajiaさま
 それにつけても「勝ったな」というのも壮烈な。

家族ケアの問題については、以下の論文などもご参照ください。

●中根成寿(2006)立命館人間科学研究、11号
家族ケアを構成する二つの資源─知的障害者家族におけるケアの特性から─
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/ningen/ningen_11/11_137-146.pdf


写真は愛知ネコ