障害者割引き

marumo552007-07-18

坂東イルカ様のコメントへのリプライです。

質問:ところで、持っている障害者手帳の等級によっては、公共料金や交通機関の料金が割り引かれるといったサービスがありますが、これについてはいかがお考えでしょうか。
 それらは生活に必要な事項であるから割り引くのが当然だという考え方もあるでしょうが、「安くなってラッキー」とばかりに電車をフルに利用して趣味の買い物をしている人もいると聞いたことがあります。そういう、障害者という理由で割引サービスを受けつつも卑屈にならずに人生を楽しんでいる障害者もいるのなら、私個人としてはそれはそれでOKのような気もするのですが、どうでしょうか。

障害者手帳によって、公共料金や交通機関の割引が、本人のみでなく付き添いの人にも適用されます。私の友達にも、どこが障害かって殆どわからないんだけど、高速料金が半額なんでもっぱら車とかいう人もいました。家族がこの障害者割引を当事者抜きで使いまくるなどという話も関係者から聞いたこともあります。
最後の話はちょっとなあと思いますが、公共料金、公共交通機関などで割引になること自体、私も異論はありません。ハンディに対してなんらかの援助設定があるのは当然だと思います。問題はこの援助のあり方、具体的支給の方法にあると考えています。  
第一の軸は、「割引き」という制度が、同じ消費者としての「交換」という状況においても、色々なレベルがあり、文字通り直接的で具体的な交換が行われる場(例:タクシーの運転手さんとお客の関係、商店での買い物での店員さんとお客の関係)における場合と、銀行引き落としなどの直接的交換ではない(マシンによって介在される)場面では異なるのではないかということです。前者の場合では、まさにその交換の瞬間に、売る人の行動は、対面的に「障害者」のもたらす割引料金と、そうでない人の通常料金というふたつの異なる強化随伴性にさらされることになります。さらには、かつてのタクシーシステムのように、「割引き書類」を別のところで清算しなくてはならない、といった、割り引く人が個人的にその行動にコストを担わなくてはならない場合では、差別性は益々生じますよね。それに対して、公共交通機関での窓口や、銀行引き落としの公共料金などでは、相対的に、即時的で差別的(differential)な随伴性の差異は少ないように思います。払う側、受け取る側の「意識」(卑屈になるとかならないとか)云々とは無関係に、この即時的な随伴性の差は、なんらかの行動の差異を生む可能性のあることは、行動の原理からいっても明白ではないかと思います。
第二の軸は、そもそも「割引」というのは、特定の対象に限定したものであるということです。先に述べたように「割引」というのは、その交換の時点では、電車に乗るとか、タクシーに乗るといったように用途限定です。用途という特定の行動の成立に対して選択された上で割引はおこなわれているわけです。当然ながら「ラッキー」ではあってもその行動選択肢は他と較べて、使う側にも選択しやすいものです。選択しやすくなる、というそれだけを捉えれば、ポジティブな話なんですけど、選択を他者に指定されているともいえます。個人個人で、その「割り引かれる」選択肢を選べるかというと、そういうシステムではないですよね。では、割引かれる行動の選択肢を自分で選べるという風にするにはどうしたらよいか、と考えてみると、それは実は「お金」で渡しておくということです。
「割引き」という援助と対照的な援助は、障害者年金的な一定額をハンディに対して現金で渡すという方法です。お金は、行動分析学用語でいえば、般性強化子とよばれるものです。その特徴は、非限定的な強化子と交換できるところにあります。つまりは、自分で選択肢を選ぶことができるというわけです。
「行動の選択肢の拡大」という行動分析学のミッションを考えた場合、これも相対的ではありますが、割引より現金支給の方が良いのではないか、と。
 もちろん定額的な年金にも問題があるわけで、個人差をどのようにして按分するかという課題は残ります。自立支援法の障害区分認定の作業をしていると、始終その問題に直面します。その人の生活実態にあわせた割引項目を自分で選択できるような折衷案みたいなものが現実的なのかも知れませんね。もちろんその絶対額の多寡でいえば、現状では少なすぎるように思いますが。