携帯電話はTCM(total communication machine)?

marumo552006-10-15

金曜日の1時間目「バリアフリーの心理学」では、前回、携帯電話の利用法について、みなさんのアイディアを募集しました。
 集計中(いつ終わるやら)ですが、このブログの12日のコメントhttp://d.hatena.ne.jp/marumo55/comment?date=20061012#c で、tmkさんやレジスタントさんから興味深いコメントをもらっています。
 視覚障害の人が、静止画像を使って居所を知らせるというこの使い方は、案外、気づかなかったなあ。つい視覚障害の人が、「自分では見えない」モードを使えるって考えなかったわけだ。
 この話って、携帯の使用では非常に重要な話しなんですよね。

 第一に、遠隔地間のコミュニケーション道具、とりわけ「場所や位置の確認」をするときに、写メを使うとき、目印(ランドマーク)を送るわけなんだけど、これは、相手にそれを観てもらって記述したり、それを見て道を教えてもらうための、教授要求行動ですよね。
 このとき、大事なのは、自分ではなく送り先の聴き手(観手)にとって弁別刺激になることが重要なんですよね。その意味では、道に迷った視覚障害の人が、自分で「みて」わかることは必要じゃないんですよね。あくまでも送り先の人に「観て」判断してもらうことが大切なんですよね。言ってみると、当たり前なんだけど、そういうことを改めて確認させてくれるエピソードだったわけです。
 同様の発見は、写メールを使った居場所報告の研究紹介のとき、申し上げる予定です。
 
 そして第二の点は、以下のようなものです。TC(トータル・コミュニケーション)といった場合、それはそもそも、確かに、障害のある無しの区別なく、様々な知覚特性のある人が相互にコミュニケーションをとるために「なんでもいいから使っていこう」という趣旨であったわけです。
 かつてのTCの概念が出来たころは、聴覚障害者に「対して」、メジャーな「聴者の方から」そういう提案が出たと記憶してますけど、その後、TCのトータルという意味は、「手話」を積極的に使用することを主張する際に使われることが多かったと思います。ちなみにTCは「ろう」の問題に限らず、自閉症児の言語行動のモードを考える上でも援用された概念だと思います。
 そしてTCという考え方は、ろうの世界ではあまり言われなくなり(「なんでろう者だけが同時通訳せにゃならんのだ、という批判もあったように思います)、つまり手話はひとつの確固たる言語(文化)であり、特殊なAAC手段ではなく、ある人たちにおける第一言語として展開してきたと理解しています。
 そういった推移もあったので、「ろう者と聴者」とか「ろう者と視覚障害者」とか、さまざまな文化や言語の「組み合わせ」の中でのコミュニケーションの問題を、ある意味、軽視してきたことを白状しなければなりません。

 現時点では、あまり「ろう」についてこだわらずに、あらためて「携帯」というカジュアルな道具を、肩肘はらずにTCMとして、いろいろな人たちが日常的に使用している例を積極的に考えるべきなんですね。

 ちなみに、人間科学研究の4巻に、視覚障害の人がどういう場面で困っているのかについての東山先生の研究レポートがあります。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/ningen/ningen_4/099-112.pdf