バリアフリーの心理学 その他

marumo552006-10-19

 前回の「バリアフリーの心理学」で、書いてもらったプチレポートの集計(というか内容を並べたもの)を以下にリンクしました。WORDで貼り付けたので適当にアレンジしたりして眺めてください。
      http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/TCMidea.doc

 それとエクセルで集計しなおしてくれる人がいたら、物質的大強化しますから申し出てください。あらためて名前を伏せたローデータ渡します。
   
 ところで、このところ福岡の事件以来「いじめ」の問題がマスコミをにぎわしています。
最初はマスコミも、かつてのJR事故のときのように鬼の首とったように、学校や校長を袋叩きという感じでしたけど、少しトーンダウンしてきましたね。さすがに。
 今回は、教育委員会が知っていたの知らないの、文部科学省の統計ではイジメは減っているけどそれは嘘っぱちなどと、もうすでに耳タコの話しばかり。
 教育再生会議も(某大学のセンセも参加してますけど)、「いじめ」もこれから問題にするんでしょうけど、座長の先生、質問されるたびに振り向いて他の人に聞いたりしてて大丈夫か?

      教育委員会が知らない=報告をしていない

 という構図は、コミュニケーションの問題として取り上げることができます。(当たり前ですけど)。
 「いじめはあってはならぬこと」という表現があるとしたら、「あってはならぬ」のは、生徒どおしでの「いじめ」行動ではなく、上記のコミュニケーション不全に関わる何かです。
 生徒どおしの「いじめ」は、「あってはならぬこと」ではなく、「あるかもしれないこと」であり、「あるかもしれない」ことは、事故と同様、絶対「起きる」ものです。二輪に乗っていれば必ずコケルのと一緒です。
 そして、「生徒どおしの生のいじめ」の問題と、それを報告するとかしないとかというコミュニケーションの問題は、「事件とその報告」みたいに別々のものではなく、実は一体のものです。事後のコミュニケーション不全は「いじめ」の本質と言ってもいいすぎではないくらい、不可分なものです。(生徒どおしのコミュニケーションがいいの悪いの、生徒と教員のコミュニケーションがいいの悪いの、という話ではないですからね、為念)。
 という基本設定から、「いじめが生じたとき、どのような経路でそのことが語られるか(報告されるか)」というテーマで、昔、うちのゼミの学生Iさんが卒論を書きました。徹底的行動主義にもとづく「いじめ」問題の取り上げ方としてはこうなるのは必然ていう問題設定です。最近、そういう真剣勝負の卒論が少ないな。反省。
 学校の先生へのインタビューが基本でしたが、昔学校の先生だった某大学の先生にも、Iさんは相談に行ったけど、「そんなのはイジメの本質ではない、って叱られちゃいましたあ」とか泣いて帰ってきたな(ホントは泣いてない)。ま、10年早い研究だったのよね。というか「子どもの心の荒廃」とか言っているような先生にはわかんないんですよ(誰が身近に言っている先生がいたら御免なさい。他意はありません。一般論です)。


写真は2回生のF様からの頂き物のネコ