行動と意識(1)

marumo552007-04-28

 風邪で、1週間、ブランクが空いてしまった。今、本当は4月30日です。ちょっと時間を遡ってアップします。2年に1回くらい、大風邪をひいて、いったんひくと薬のんでもなおりません。今回もCTまで撮ったら、「ふむ。結核の後がある」だと。おそらく昨年あたりも言われていたんだろうけどすっかり日々是新鮮で、また改めて驚いた。「よくあることです」とのこと。いつごろ患ったのか「年輪」みたいにわからんものか。既往症に入れなければいけないのか。2度もやったBCGはなんだったのか?
さらには、過去のどこかで「ひどい風邪だな」みたいなときの少なくとも一回は結核だったわけだ。あてにならないな。予防医学。レントゲン。


 行動と意識についての、聴講犬さん・たーぼさんの議論は、行動分析学を理解する上で、そして今回話題になっていた、行動分析を他者に説明する場合にも重要なところです(あ、行動分析学の理解と他者への説明というのは、たぶんみなさんが考えている以上に実は同じ作業なんですけど)。
 聴講犬さんが最後に、「『外部からの働きかけがあって、意識が変わって、行動が変わる』という流れ、よく分かりました。ありがとうございます」という話で、議論が終わっていますけど、確かにこれは非常に自然に思える図式なんですけど、
  環境刺激・・・・意識・・・・行動
という風に、必ず「意識」が媒介して行動が発現する、という風に、リニアなモデルで考えてしまうのは間違いですからね。ルール支配行動という言語「的」刺激によって行動が統制される場合や、自らの言語刺激によって自らの行動を統制する状況もありますが、必ずしもすべての行動がそうではありません。むしろそのほうが少ないと考えておいたほうがいいです。このモデルでも、確かに「意識」は環境刺激による従属変数となっていますが、では、それが必ず後の行動の「独立変数」になるとは限らないということです。環境刺激が、「意識(=言語行動)」と、別の行動の2つを統制していて、意識(言語行動)と行動の相関が高い状況もある、というのが正しい表現だと思います。
 意識(言語行動)と行動の間に機能的関係(因果関係)がある場合、つまり意識あるいは言語行動が、行動を統制するようになるかどうかは、当該の行動をとりまくやはり環境刺激によります。当然、逆の因果の場合もあります。

 環境刺激-意識-行動、という図式は、いわゆる学習理論の流れでいえば、S-O-Rという図式で、歴史的に言えば新行動主義者の発想であり、また洞察学習のケーラー、さらには現代の認知心理学に続くものといえます。前にも書いたように、この発想はある意味、「自然」なので受け入れやすいところがあります。しかし、リニアモデルで考えていると、行動を変えるのは意識を変えれば良いのだな、ということになって、すぐに「意識革命」みたいな話とか、「自覚が大切」(この場合、状況に対して漫然とせずに常に注意しろ)みたいな話になります。

 行動の原因を問われる場合というのは、日常的には、なにかミスをしたときが多いですよね。原因究明とかいって。そういうときは、ミスした当事者としては、意識とか自覚という自分の責任範囲でできる原因を言わないと社会的に非難されるのが通例です。これも「自然なこと」なんで、そんな社会的状況というものは、ますますこのリニアなモデルの想定を強化することになります。本人の意識をかえて行動統制するのは、一番コストやすいですし。
でも、「意識」で交通事故が減ったためしはないのです(というか、意識を改めよという姿勢で対策しても殆ど効果はないのです)。さらに、何度も引用しますが、ホームから視覚障害者が落ちる原因は、当事者の「錯覚」です、みたいな話にならないようにしないといけません(また事故がありましたね)。
 「今、そこで示された行動がなぜ起きたか」と問われた場合、本人に聞くしかない、それがゆえに、「意識」という概念を持ち出すことは自然です。しかし、繰り返しのある行動、というか、環境との複数回の相互作用の果てに現状の行動はあらわれ、またその繰り返しの作業の果てに改善があるという、このレベルでしか、われわれは他者の行動を表現できない、という謙虚さをお忘れなく。これがまた対人援助における基本姿勢でもありと思います。

 

 写真は、1/1のジャガーXK(?)。ときどき京都の衣笠界隈から北の方で見かけるな。意識的に前になったり横になったりして撮影してたら脇に止めてくれた(?)けど、そのまま当方は逃げました。無作法なやつと思われたろうな。ごめんなさい。