教職GP(第3回)記録のとりかた

marumo552007-05-26

 金曜日の夜、キャンパスプラザで第3回の教職GPの講義が開かれました。あっというまに、もう3回目、というか、1回、2回がそれぞれ結構ヘビーだったのでずいぶん長くやっているような気もします。まあ2コマ続きの授業ですから、一般講義なら、もう5回目になるわけだし。

 学校教育における「行動記録」というものには、一番オーソドックスなものには、テストの点数という「行動産物」による記録方法があります。一般校では殆ど生徒の記録といえばこれでしょう。通信簿はその集積。行動産物以外の記録としては、「態度」とかそういうのがあるのかな、今でも。大学においても、テストの点というのは当該科目の内容の理解に対する行動産物ですが、他に出席行動を採点するというやり方がほぼ例外的な行動記録ですね。

 テストという行動産物というのが、これまでの学校での生徒の行動記録であったという伝統からして、それ以上の詳細な「繰り返しのある生徒の行動変化」の記録や、「先生の指導と生徒の行動変化」いったダイナミックな部分についての記録をとるというのは、やはり馴染みにくいものがあるかも知れません。授業中、シニアTAから思わず「学校でも難しい」っぽい「本音」も一瞬ありましたが、それは技術的あるいは物理的問題として起因するところもありますが、多くはそうではありません。すでに学校でも記録をとれている先生は沢山いるんですよ。現状の学校の随伴性の中に埋没しちゃうと、思わず「他で手一杯なのに記録なんて」といった発想や感想が生まれてしまいます。「記録をとるのは難しいのはなぜ」を改めで読み返してみました。
 http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/13-Mochizuki(1993).pdf

 とはいうものの、記録法のテストでは、私もmutto先生も100点とれなかったし、人のことは言えないすね。さて、この授業を通じて、改めて記録について考えてみました。

 「記録が難しい」というのは、ちょうど学校の先生方が「行動分析はむずかしい」と感じるものと類似しています。「難しい」といわれたら、素直に「日常言語になるべく近い形で表現する」という方向でおもねって、挙句は全然、行動的でない方向(すなわち現状のまま)にバックギア全開の後押ししてしまう行動分析家もいます。化学式覚えるのがいやだから、もっと現状認識に近い錬金術の言葉を使うというのと同じです。それじゃ困る。

 行動産物の次にくるもの(簡単な記録)は、おそらくは、行動分析などでいう離散型(ディスクリート・トライアル)の場面での、正反応率でしょう。先ほどの行動産物としてのテストの成績に近い測度でとれますよね。この離散型の特徴は、対象者の反応出現のペースを、支援者側が統制しているという点にあります。つまり、いつその反応が出てくるのか、こちら側が押さえているということです。ですから当然、記録も用意です。質問と回答、というセットを、支援者の側の好きなペースで繰り返すことができるからです。コンピュータを使った学習などはその最たるものです。
 山本先生のビデオの内容も、そういう意味では離散型のものが多かったでしょ? 支援者がそれぞれの試行のスタートを決めて、それに続く反応を、場面設定の工夫でうまく単位化して評価しやすくなってましたよね。ナチュラルに近い状態であっても、支援者がうまくペースをコントロールしやすい状況を作っているわけです。
 記録のつけやすい状況としての離散型の場面設定というのは、実は、山本先生も随所で表現していた、環境の構造化ということにつながるかも知れませんね。山本先生のビデオにも紹介された「子どもがどうしていいかわからない」、つまり実力を発揮しきれない状況というのも、支援者が行動の基点となる部分を統制しきれない、従って、子どもの方も何をしていいか「見通しが立てられない」状況という事もできます。そこでは、当然、何を記録にとっていいかわかりにくい、従って「記録が難しい事態」であるということもできますね。

 教職GPの専用ブログでGAMAGAMAさんも書いているように(ごめんなさい。これは授業参加者にしか公開されていません)、「記録が難しいのは、具体的な目標が定まっていないから」という、私の上記のリンクのペーパーにも書いてあるテーゼを、山本さんの発表のビデオ・アーカイブの中身や先日の授業での推移から考えなおしてみると、「離散型の指導方法」、「環境の構造化」、「具体的目標設定の定位」、そして「記録をつけること」とは、相互に関係が深いということがわかります。
 
 行動産物、離散型試行における正反応率、といった順に、記録の採り方の難易度を考えていくと、前回の、漫才トリオに対する「笑い」の記録というのは、いつそれが出てくるかわからない「笑い」だけを対象としてみると、これはこちら側にペースがゆだねられていないわけですから、記録するのは大変。もしこれを、授業中に他の仕事をしながらやれといわえたら、確かにそれは困難な作業です。あの笑いのインターバル記録をとりながら、チュートリアルのギャグまで鑑賞できた人は殆どいないでしょう。

 しかしだからといって、教授作業をしながらああいう記録をとるのは難しいとは言い切れません。なぜなら、授業中では、チュートリアルの役割は、先生方自身であり、「笑わせようと思って(生徒の反応をださせようとおもって)」授業を展開しているはずです。「笑い」はあたりはずれがあるにせよ、チュートリアルの側に立てば、その「セッション(話のまとまり)」のペースメイクは、自分たちの側にあるわけです。「笑いによって次の展開やニュアンスを変えていく」という具体的目標があれば、笑いをモニターすることは、実は、この間の授業のように、「笑い」だけをカウントしていくより簡単かも知れません。自分たちのギャグ(先生であれば指導)と、客の笑い(生徒の反応)との両方についてモニターすることは(できなきゃスベル)、これは当然できなきゃいけない。

 学校教育において、先生側のペースで生徒の反応の生起が予測できない状況で、相手の繰り返しのある行動を記録しようとするとき、これが一番難しい記録になります。
 生徒がある時間帯に「自由に」行動できる事態というのは、実は学校場面では休み時間以外、あまりありません。授業中に、そういう、いわゆるフリーオペラントの状況があるとしたら、それは、先生の統制外の事であり、多くは「問題行動」ということになるでしょう。それを授業しながらカウントするとなると、これを先生のペースとは独立にやられたら、こりゃ確かに、授業どころではなく、あるいは記録どころでもなくテンテコまい。
 シニアTAが思わず漏らした本音があてはまる事態とはこの場面です。それでも、単に「問題行動」という風に、生徒の側だけの反応のみをカウントしようとするのではなく、それを先行刺激と後続刺激との関係としての「行動」として捉えて定義しておけば、その行動に注目することは、先生が先行刺激を管理できる状態であれば、その瞬間だけを観察すればいいので、チュートリアルの立場同様に、指導とその反応の双方について記録をとることは可能かも知れません。
 私の知るある先生は、そういう記録を授業中に、黒板やテーブルにまで、チョークで「正の字」でとっておき、授業がおわってから、それをカウントしてノートに記録を蓄積していました。これには感服したものです。テーマ(具体的ターゲット)が明確であれば、こうやって授業中に記録をとることも可能なんだな、ということを改めて実感した次第です。

 とはいいつつも、先生の管理化におけない、つまりまったく予測のつかない行動記録を、しかも時計と首っ引きでインターバル記録をする、なんてのはやっぱり無理ですよね。

 さ、そこで、学生ボランティア、学生ジョブコーチ諸君の出番なわけだ。本GP授業の「自己決定」をテーマにしたセッションでは、特別支援教育の事態で、教員補助員である学生が克明に記録をとり、その記録が先生の支援内容の効果を示していったという報告が、TAのKさんからありますので、お楽しみに。