特別公開シンポジウム:障害学生支援の新しいビジョン

marumo552008-02-23

 特別公開シンポジウム「障害学生支援の新しいビジョン〜学生も職員も教員も<研究者>である」が、立命館大学人間科学研究所と同障害学生支援室の共催で開かれました。
 報告者として、外部からは、障害学の視点から倉本智明先生(東京大学経済学研究科特任講師)、キャンパスでのユビバーサルデザイン教育の設定を実施している高畑由起夫先生(関西学院大学総合政策学部教授)の2名、立命館大学からは、行動分析学の枠組みから支援(実践)における「記述」の機能について吉岡昌子さん(文学部助手)、立命館の「現場」から二階堂祐子さん(立命館大学障害学生支援室)、トリとしてLerner Centeredな教育運営を目指す“大学代表”(?)の中村正先生(障害学生支援室長)の3名。今回のプロデュースならびに司会は吉岡さんです。
 
 「研究者である」というコンセプト、結果的に、みなさんの報告の中で重層的に確認されていったと思います。
 わたくしが所長挨拶の中で申し上げたかったのは、「研究倫理」という現在、懸案になっている課題とのからみからのものです。わたくしは研究倫理の問題を考えるとき、学生(学部生も院生も)も研究者であると主張しています。研究倫理は「(プロの)研究者のマナー集」であるという考え方(つまりは「べからず集」)もありますが、そもそも研究という行為自体の意味(機能)を確認する必要があります。対人援助学的な対象を研究する場合を考えたとき、研究とは、(対象となった)個人個人の行動が成立するために必要な環境設定について、社会へ向けて(要求を含めて)報告をすることです。それは「(研究が)うまくいったから報告する」のではなく、当事者の上記したような利益のためには報告という社会的行為は、研究行為自体の必須の要素であるということです。つまり発表は研究者の義務であり、そのことを十全に行うこと自体が研究倫理の本来の意味であると考えるものです。
 研究と実践とは不可分なものです。「うまくいった研究を報告する」という旧来(?)の考え方は、大学教育の中にあっては、学生と先生という狭い閉ざされた関係の中で、前者が後者に対して宿題やレポートを出したり試験問題を解いてみせて、後者から評価をうける、というのと類似のコミュニケーションの機能であるように思います。しかしゼミの発表でも卒論でも、私は充分に社会に対するメッセージの機能を担えるものがあると考えていますし、学生も、そのような社会的機能を自分が最初から担えるということ、つまりは学生も自らを研究者であると自覚することによって日常的な勉学の「正しい」モチベーションも高まると信じています。

 前置きが長くなりましたが、「障害『学生』の支援」といった場合、学生を、先に述べたような「旧来研究モデル」の中での、なにか教師から知識を受動的に学んでいく(ま、そういうのも必要ですが)ものであり、「支援」といった場合でも、そのようなことのための「情報保障」といった狭い意味として捉えられてはちょっとまずいと思うわけです。研究倫理の本質は、研究行為を促進することであり、従って、障害学生支援で行うべきものも、新しい意味での研究行為を十全に行えるというレベルにまでならないと、ということです。
 
 最後の中村先生のlearner centeredな大学という主張とほぼ同義ともいえます。障害学生支援という行為について「記述」を伴うことが実践的な効果をあげる上で必要だ、という吉岡さんの発表で示されたものは、実践=研究という先に述べたこととも一致します。この支援そのものが非常に重要な研究フィールドであるという意見も発表者から示されましたがそのこととにも通底するものですよね。

 昨日の西総合支援学校での「たぬきとアライグマの対談」を聞いてくれた先生の中で、今回のシンポにも参加してくれた方がいらっしゃいまししたが、「個別の包括支援プラン」でのキーポイントと、「障害学生の支援」を考える場合キーポイントも、今回のシンポジウムの後半部分の展開で、実は同じであることがおわかりですよね。吉岡さんの発表と昨日のアライグマの発表は、実はおんなじことを言っているわけです(ローカルな話題ですいません)。

 このシンポジウムの内容は、近々、オープンリサーチセンター事業の研究シリーズとして活字化かつPDF発信されます。