ハブとマングース

marumo552008-02-22

 じゃなくて「たぬきとアライグマ(写真参照)」か。西総合支援学校の朝野先生と公開対談。同校の平成19年度研究報告会(テーマ:「個別の包括支援プランに基づく子どもの地域の生活を見据えた教育・支援〜共同と協働〜すべての子どものFA宣言をめざして」)の最後を“飾って(?)”約2時間のセッションがありました。西の先生方、保護者の方々、さらには遠方からお見えの諸先生ごくろうさまでした。

 対談は、個別の包括支援プランについて、その実行に至るプロセスで、先生たちが「なんか堅苦しく感じてしまう仕組みではないか」という私の質問から始めさせていただきました。
 言うまでもなく、アライグマ(私)の趣旨は、朝野先生(たぬき:a.k.a.「歩く地雷」)を中心に創られた京都の個別の包括支援プランの意味を確認し、その継続のために必要な「手立て」を常に開発しリファインしたいということです。オーディエンスの一部は、アライグマが、個別の包括支援プランを否定的に批判することを期待されていたようですが、もちろん逆です。
(再三くりかえすようですが)今年度の、「学生ジョブコーチ実践」や、各校あるいはコーディネータ研修、そして教職GPでの「宿題」などで提起してきた課題について、その最終的総括と感想を、朝野先生に質問するというかたちで、ことの本質をオーディエンスにも理解してもらい実践のカイゼンを行っていただくというのが、アライグマの考えたこのセッションの機能です。

 「個別の包括支援プラン」の運営のカイゼンについては、応用人間の修論(山中,2008)にクリティカルな問題点の指摘があるので、これについてはいずれ学校関係者にも公開していく予定ですが現在はまだ「審査中」。ばくっといえば、「個別の包括支援プラン」という言葉によって綴られた資料は、いったい誰に読ませるつもりで書いているのか、という言語行動の社会的機能を確認する必要があるということです。

 個別の包括支援に限らず特別支援(あるいは学校教育全般?)の問題点は、ひとことで言えば、
 教員は、「生徒を教育し、成長・発達させ世に送り出すこと」が、仕事だと思っているのではないか?ということです。そのどこが問題だ?と思われるかも知れませんが、これでは仕事は半分しか(あるいはそれ以下?)すんでいません。個別の生徒が、どういう状況設定のもとでなら、ある行為を行うことができるか、その「状況」は、教え方であったり支援ツールの設置だったり様々ですが、その状況を込みにした生徒の行動の変化を記述しそれを伝えることが必要なのです。このことは「情報移行」といった表現でひとくくりにされることがあります。実践(直接の支援のあれこれ)に対するプラスアルファ程度に考えているかも知れませんが、全然違います
 
 いまさらながら、かつて出口光氏が、カンサスの留学後に発表した「行動修正のコンテクスト」(出口,1987、行動分析学研究,2,48-60)の内容が光って見えます。

「・・・行動の増減自体は価値的な意味をもたない。・・中略・・・クライエントを含む関係者の行動の増減に関する言語行動の中に意味(つまり、成功や失敗)が存在するのである」

 「個別の包括支援プラン」というものが、単に子どもに対する具体的対応の内容を導くためのマニュアルづくりだと捉えられていれば、せいぜい実行プログラムで行き止まりになるのは当然です。実行プログラムで得られた「環境(状況・てだて)ごとの行動の変化」の記述が、プランの上方修正を生み、そのように底上げした状況で次の実践(行動の成立)に移ることが「キャリアアップ」なんですから。

 個別の包括支援と実行プランの間に、それを実践する先生の行動連鎖に機能的な溝がある現状では、「個別の包括支援の書き換えが先生の行動目標」という意味がなかなか通じないわけですよね。