バリフリ・コメントと「対人援助学」って何?

marumo552009-10-30

 バリフリのコミュペ特集です。携帯の着信への反応に関して、「気づくというのも行動だと初めて知った」というコメント多かったですね。なぜK中華料理店の人が、私と☆先生の区別がつかないかという逸話で、全てがわかったという人も多かったですね。先行刺激優先主義は教育場面でもよくあることです、と応用問題を実体験から書いてくれている人もいましたね。
 前回(10月30日)の授業のハイライトは、1. 着信に気づいてもらうには(先行刺激の強調に走るのではなく)強化随伴性(機能)から考える。2.メイル使用も、その場面や状況における、形式的な行動連鎖の獲得ではなく、やはり強化随伴性(機能=ここでは「おつかい物品を選択でき注文者に届ける」ということ)によって大きく影響を受ける。という2点でした。

 そして、コミュペにあった大きな質問:(斜字)
「対人援助」というのは、障害を持った人に対応するという前提なんでしょうか?・・・「対人援助学」として研究をすることと、実際に仕事として援助をすることの間に差はないのですか?援助という概念には「援助する側が自身の生活を確保している」という前提があり、仕事となれば「自活するだけの収入がある」ということと同義であると思えます。そういった仕事に直結する学問なのか。それとも学問として追求することが目的なのか、というのが気になります。

 「対人援助」という行為そのものに、する側とされる側のそれぞれの属性や関係にあらかじめ決まった定義はありません。ですから障害を持った人に対応するということが前提ではありません。また、援助する側が被援助者(される側)とは対比的に「生活を確保している」とか「悩みもない」とか「安定している」とかいう前提もありません。ひとまず、対人援助(たすける)は、ある個人の行動成立に必要な人的・物理的援助を設定すること(=「援助」)やそれを教える(=「教授」)という二人称的な行動すべてに対する名前です。
 ただし、ある個人の行動成立という場合、そこではその当該個人(被援助者)が選択した行動である、ということが「対人援助」では重要な要件です。となると、確かに、「他人がやりたいことを、なぜ人が(わざわざ)援助するのか」いう根本的疑問も浮かびますよね。信仰や宗教やその国の習慣といったことを別とすると、日常で、そういう行為が継続的に成立している人間関係というのは、「被援助者と援助者の関係」がなんらかの社会的取り決めが設定される場合です。であれば、確かに対人援助における援助というのは、(自活するだけの収入があるかどうかは別として)「職業的」援助者によってなされるものだともいえます。その意味では対人援助学とは、プロの援助者の学問といえると思います。このプロの援助者のありようを学問として追求するということは、これまでも教育学や福祉学でも同様にあったと思います。そこでは、仕事直結の研究(実践的研究)もあれば、その学問そのもののあり方を追求する行為も(必要に迫られることもあり)もちろん、ありだと思います。

 従来の教育学や福祉学や心理学と「対人援助学」はどこが違うのか。実際の対人援助場面では、それらがそれぞれに持っているロジックや理論では対応しきれなくなってきているという判断があるからです。

 どうか、第一回の「対人援助学会」に来て、どこが違うか(違わなかったりして・・)見てください。


 写真は、尽心館の向かい側の等持院で一番背の高い木ですが、月曜日にはもうなくなってます(涙)。定点観測的に毎年このシーズンに撮影してたんですが・・・