対人援助フォーラム2009

marumo552009-11-08

 本日は、対人援助フォーラム2009「寄り添う対人援助」が、昨日と同じく立命館大学衣笠キャンパス創思館で開かれました。
基調講演は、さくらいクリニック医師 桜井隆氏の『あなたの家』〜住み慣れた家で死ぬこと〜。
 病院で最期を迎える、その比率が90%以上という高い率になったのは、1970年代からとのこと。この比率は、世界的にみても非常に高く、ちなみにアメリカでは70%(在宅30)だそうです。長い歴史と広い世界の中でも、このような状況は、今の日本だけ。
 それでも最近は、在宅介護などの制度の変化もあり、やや家で最期を迎える人がわずかばかり増えているとのこと。
 
 桜井氏の話を聞きながら色々と考えちゃいました。この病院率の高さというのは何が理由か。在宅介護の制度も、もちろんあるでしょうし、住宅事情もあるかも知れません。さらには、肉親であれ自分であれ、たとえ時間の問題とわかっていたとしても、やはり、とりあえず「死にたくない」「死なせたくない」という気持ちが強迫的に形成されてるんじゃないか。言葉を変えれば、自分にせよ肉親にせよ、普段漠然と思っている以上に、命から手を離す=最期を”選ぶ”覚悟ができていない? 「死を認める」ということができない? ソフトランディングという表現を桜井先生はお使いになってたけど、いざランディングというとき、やはりタッチ・アンド・ゴーをしてしまうのではないか。それがつかの間であれ、生きる・生かす方向の行為があればそれをしてしまう(しなくてはいけないと思う)のではないか。と、個人的には思うわけです。

 講演の冒頭で、「どんな病気で死にたいか」という質問があり、心臓や脳卒中系の「ぽっくり系」か、癌による「ゆっくり系」か、という二分法の選択では、昔は苦しみたくないという利己的な理由で「ぽっくり系」でしたが、最近の心境では、やはり色々と整理・始末しとかなきゃいけないものがあるという理由で後者の方に手をあげました。基本的には、この判断の方が近年「かっこいい」とされてるし。しかし、これは決して、「死を受け入れるための時間がある」という精神的なものではなく、「ちょっと待って」的な、とりあえず困る系の利己的な理由にすぎません。

 もちろん大昔から人は「死にたくない」のが基本ですが、それにしても、「生きるため」の算段がいつも優先される、ということが、必要以上に社会的コンセンサスになってないでしょうか。無添加食品、健康食品、メタボ対策、アルコール消毒、そして、大禁煙キャンペーン。これだけ「生きる方向」の行動が世間をあげて分化強化していれば、その反対の行動は相対的に消去されるのでは? その消去される行動には、最期を迎える、向き合う行動も、含まれてしまう、と。

 非常に、悪い例かも知れないけど、犬とかネコのペットの最期は、在宅が多いのか病院が多いのか。ここでも後者が増大してないか。あらゆる最期に目を向けられなくなっていないか。

 禁煙しないのは、ゆっくり系を志向するがゆえか。F金先生の禁煙はどうなった? 行動追跡ソフトに喫煙は反映されないのかな?


 写真は、フォーラムに出演の兵庫県立川西明峰高校ダンス部のみなさんのダンス・パフォーマンス。