オドノヒュー先生の公開講演

marumo552010-12-09

 昨日(12月8日)、谷先生のプロデュースで、ネバダ大学のO’donohue先生、の公開講演がありました。

 夜の6時からのイブニングセッション。O先生の公開講演会は2006年の2月にも一度行われていますが、当時は「オープンリサーチセンター事業」のスタートにあわせて、そのイベントのひとつとして開かれたものでした。その時の様子は、http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20060208 に詳しく書いてあります。今回は、今年から始まった、「戦略的研究基盤支援事業」の研究成果広報の活動の一環として行われました。
 
 今回の話は、前回の時に紹介されたIntegrated Behavioral Healthcareより、もう少し大きくIntegrated Care という名のものに、主にプライリケアにおける「行動療法家」の参加によって、効率的に行う医療システムパッケージのプレゼンテーションあるいはプロモーションという内容でした。

 今回の発表では、省略されたスライドの中には、前回やや詳しく説明されたIntegreated Behavior Healthcare のゴールや、このIBHというものが、Mental Health セクション(サイコロジスト、ソーシャルワーカー精神科医)と、medical セクション(Internists, Pediatricians,Nurse prctitioners, Surgent)の双方の連携としてIntegrated care をおこなう、その総称として登場してます。「心理側」から言えばそれならわかるのですが、今回のプレゼンの事例は、どちらかというと、medical care(糖尿病や肺閉塞の治療)を「補う」ものとして、あるいはそのようなIBHというシステムで対応すれば、medical careの方の作業の20%が節約できる、といった表現もあったことから、メディカル(医療)を中心としたシステムモデルのようにも聞こえます。皮相的な見方ですが、厚労省が「心理臨床士」みたいなものを作ったら、医者中心のこんなハイラルキカルなシステムを作るんじゃないか、といった感想も抱けるものでした。

 しかし、これはプライマリーケアにおける新しいスタイルのintegrationであって、メディカルな病気が診断されたあと、服薬コンプライアンスなどで心理屋さんの登場が期待されるといった消極的参加ではなく、ステップ-ケアと称する、クライアントのまさに最初のアセスメントや診断に際して、Watchful waiting、Education for services activivty, biblio therapy,といったクライエントのとるべき選択肢をまず提案する、その時点においては、medicalケアと対等なmental careの専門性が必要とされる協働作業が想定されているものです。

 講演では、いきなりコストの話が出てきました。現在、消費されている医療費が、ICによればどれだけ節約できるかといった論調です。エビデンスド・ベースドで効率的な診断やトリートメントを追求するという論調は、マクロな医療費財源課題に直面しているアメリカや日本では、予算を握る行政主導の弱者切り捨てではないか、といった方向もつい思いがちです。あるいはブリーフセラピーは財源難の社会においては必要悪である、という脈絡から善し悪しを判別してしまいがちです。

 しかし、エビデンスといった話題は、トリートメントと効果の間の因果関係や治療の機能的メカニズムから目を背けて、だらだらと赤字を当然のように出して、ともかくゆっくり通院してもらって、セラピストも儲けることができるという随伴性にどっぷりつかっている臨床世界(他にもまだケアやサービスの世界ではありますが)は、このようなコストの問題という、普段、悪い意味で聖域にさえなりがちな事柄について、自らの職制の仕組みと倫理的観点からも、絶えず再検討する必要があるでしょう。

 かつて(って、かれこれ30年近く前)、北欧のノーマリゼーションの実践者や研究者が来日したときの講演でも、ノーマリゼーションの実現によって、どれだけの予算が節減できるか、というコストの問題から始まることが多く、それは理想論や精神論で「弱者へのサービス」を支えるべきだとする当時の日本での(わたくしめの)常識からすれば、きわめてインパクトのあるものでした。実は、わたくしめも、当時は、なんだ、結局、コストの随伴性なのかと、ちょっと、斜めの目線になったりした覚えがあります。Integrated Care におけるコストの文脈も、現状の医療、福祉のありようについての常識からすると、ちょっとな、と感じたりもするのですが、新しいベクトルとしてインパクトを与えるものと言えるでしょう。

 O’donohue先生は、6年ぶりですけど、リサーチャーとかプロフェッサーというより、まんまCEOという風情(風体も)でしたが、これはしかし、この世界におけるこれからのありかたとして、注目すべきひとつのモデルと言えるかも知れません。

 実力も体力もない、現場もろくによく知らない(われわれ)研究者も、「コスト」「コスト」っていうこともあるけど、それってただの自分の心配じゃないか、って時が多いですよね。ベジタリアンなのにあの巨漢の“CEO”が発言してこそ意味があるかも、というのも正直なところ。