傾聴

 最近,「傾聴」という仕事が大流行なんですねえ.
 「高齢者傾聴技能士」とか「傾聴聴話会」とか,そんな資格や会があるんですね.ネットで「傾聴」と入力すると膨大な内容が出てきます.
 確かに「聴く事の力」(自動リンク貼れるかな)は広義の臨床の基本とも言える力であり態度でもあります.「対人援助」という枠組みから考えた場合にも,教える,治す,ではなく,また自分でも知らない本人の属性を「測る」(テストとか)とも異り,相手の口からその行為として示された内容を「聴き取る」ということは,「助ける(援助)」作業には大事な要素です.
 かつて最重度の障害のある成人の「自己決定」の実践研究をしている際,「相手の好きなものを知る(測る)」,そしてそれをその人の「好み」として決めてそれを「提供する」というやり方には問題があることを主張しました(HPの文献あれこれ参照のこと).大事なことは,絶えず,「今(その時点時点で)好きなものを選べる機会を保障する」,ということなのです.相手を「知る」という行為には,相手を,つい固定的なものとして捉えるという結果がつきものです.施設の職員が(あるいは教員が)「この人(生徒)が何が好きか知っている」「だから,何を選ぶかは”予測できる”」という認識はプロの誉れとも思われがちです.援助する側が,被援助者のそうした「属性(属性というのは固定的行動特性かな)」を知っていることこそが一般的にはすぐれた援助の条件のようにも思えます.
 しかし,さきにも述べたように「相手の好みを知っている」ということと,たえず「選択の機会を提供する」ということは違うものです.前者では,援助者は予想があたったときに強化を受けるでしょう.しかし後者では「なんと,まあ,そうだったの!」といった予測がはずれた場合に強化を受けます(受けるべきです.それこそがコミュニケーションだと思います).予測とは違う,今なにをしたいか,今,何を好むかを,表明してもらうことこそが「聴く力」であるわけです.
 さて,最近はやりの「傾聴」です.実際にその「聴く場」においてどんな事が語られて聴かれているかは知りませんが,「高齢者傾聴といえば,「縁側でおじいちゃんのお話を聞く仕事」といったイメージがあります.確かに,話相手がほしいという人もいるでしょう.上手に聞くにはそれなりの技術も必要だし,確かにそういう需要もあることも了解できます.

 ただ「聞くだけ」の仕事という場合,それがその先にあるものが,どうも見えません,というか,その先は「無い」ことを前提としているようにも思えます(傾聴という動作を強調されているわけですし).われわれが考えてきた「聴くこと」とは,まさに「正の強化で維持される行動の選択肢の拡大」を目的としています.援助者が予測しえなかった希望を意外性とともに聴きだして実行に移していくことがその大事な役割だと思うからです(援助・援護の展開可能性を考えると).

 傾聴1時間5000円という値段がついているものもあります.さて,これが高いか安いかは別にして,ちょっと考えさせられますね.
 デリ傾聴,一時間500円なら,ときどき愚痴を聞いてもらうのもいいかなと,ちょっと思ったりしますが.聞き手のプルフィルとかも開陳されてて選べるみたいだし.さて,どんな人がいいかな.
 
本日の体重81kg,
体脂肪率24.1