パラリンピック:援助・援護・教授の饗宴

marumo552006-03-23

 実践障害児教育の読者の方からコメントがぼつぼつ届いています。
ありがとうございます。ここに直接コメントするのは、ちょっと抵抗のある方は、私あてへ直接メイルくださっても結構です。

mochi@lt.ritsumei.ac.jp へよろしく。

 さて、このところ、スポーツといえばWBC日本優勝ですが、もう終わったパラリンピックの話題です。
 昔、コロニーで働いていたころ、愛知県で全国障害者スポーツ大会(という名前だったかな?)が開かれ、わたくしの知人もその運営のためにしばらく出向していました。いろいろと興味深い話を聞きましたが、とくに、公平性を担保するためにどのような援助まで許されるのか、という点に興味を惹かれたのを覚えています。そのころ、自己決定を保障する援助設定(註1)としての公正交換指標(Fair Exchange Marker)(註2)といった概念を考えていたので、目標が明確な競技という場での「過不足ない援助」とは何か、それを誰がどのように決めて監視するのかという問題はいろいろと参考になりました。
 今回、パラリンピックを見て感動したのは、それと無関係ではありませんが、もっと単純なものです。道具という物理的な「援助設定」のすがすがしさです。道具の進歩、そして、その道具を使いこなすという形での「進歩」を感じることです。もともとウィンタースポーツは、雪と氷のすべすべの斜面あるいは平面を「専用の道具で移動する」のが基本です。「スキー」とか「スケート靴」です(これ自体、援助設定と言えるわけですが)。パラリンピックでは、それをさらに工夫した「座位のスキー」とかがあってそれで大回転とかやるわけです。あのスキーとシャシーの仕組みとかどうなってんだろう。普通に両足でスキーで滑ってるじゃないかと思ったら右足は実は義足だったりする、あのスキー靴とかはどうなっているのか、といった興味がつきません。
 「援助」(極められた道具)-「援護」(その一般化)-「教授」(その工夫された道具のもとでの徹底的な熟達)の連環の中に「進歩」を感じるわけです。「障害者でもスポーツはできる」ということではなく、その極められた「マン−マシン」の相乗作用に打たれるわけです。
 もっぱら道具より人間の肉体の訓練だけで行う「ふつうの」オリンピックとかは、言ってみれば「教授」の部分のみで勝負するわけです。しかし「教授」のみ、つまり個人の鍛錬や訓練のみで「進歩」をはかるというのは、もう限界に近いのではないでしょうか。あげくは、ドーピングといった方向に走ってしまう。そんな限界や問題を抱えるものより、物理的な「援助設定」を前提として連環的な進歩をみることのできるパラリンピックのほうがよほど人間的で、かつ芸術的なような気がします。
 


(註1)援助(設定)・援護・教授については、現在、実践障害児教育で連載の「対人援助学のすすめ」の5月号で復習します。初出は、1998年の「連載1回」。これについては、下のアドレスのわたくしのHPの「3.具体的研究の紹介」の中の、
・望月昭:講座コミュニケーション指導・再考(10回連載)
 の最初の・をクリックするとpdfが貼ってあります。
(註2)「公正交換指標」についても同様のアドレスで。
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/