実践障害児教育7月号への質問へのコメント

marumo552006-06-17

実践障害児教育7月号に関連して、ハリコさまの質問へのリプライ(>>>がハリコさんの発言:●がmarumoのコメントです)



>>>こんにちは。援助者は、かかわる相手に対しての情報が多いほど、障害名や問題行動などの情報に翻弄され、実感や体験を通してのその人を理解していくことから離れていくように感じます。

●16日のブログにも書きましたが、LD、アスペルガーADHDなど、次から次へと「障害名」がクローズアップされ、「彼ら」はいったい「どんな特徴があるのか」と一生懸命勉強したその内容が、必ずしも、目の前の当事者である「あなた」のための援助実践に直結するとは限りません。知能テストや障害名で示された一般属性としての「彼ら」に対する知識と、リアルな「あなた」のいまこれからを考える実践的戦略とでは、そこで必要な事柄も変わってきます。


>>>まず相手を知っていくこと、相手を見つめていくことは、とても重要なことであると感じますが、「ありのまま」のその人を受けとめていくことに、援助者の先入観が邪魔をしてしまうこともあると感じます。相手を捉える視点が、思い込みによりズレを生じている場合、行動の中に勝手な意味づけをしてしまうことも多く、課題を分析していくことにも影響があるのではないかと思います。自分の持つ考え方の癖や見方を振り返り、一度崩してみて改めて捉え直すことが必要であるように感じました。

●その通りですよね。前記したように「彼ら」を「あなた」にあてはめるような先入観は言うまでもなく問題ですが、これまでの「あなた」に対する先入観が、今の「あなた」に対する対応にもマイナスになってしまうこともあります。「自分の持つ考え方の癖」というのは、なかなか主観的に振り返ってもわかりません。
「一度崩してみて」というのは大変重要な作業ですが、さあくずしましょと思っても、自分自身を崩すのは大変難しいことです。そのためにこそ「記録」というのは必要ですよね。自分の実践を振り返るとき、例えばビデオにとっとくだけでも、結構、発見できることもあります。早回しで見ると面白いですよ。
さらには、自分で自分を振り返るという困難な作業を無理にするのではなく、第三者に観察してもらったり、相談したりするのも効率的かも知れませんね。
 実践障害児教育の秋以降に「特別支援教育」の実践的展開の中で、この第三者として、気楽なバディとしての学生の役割について提案したいと思います。


>>>また、実践障害児教育の7月号の中では、「過不足ない援助」の重要性があげられていました。ついつい余計な手や口を出すことをやりすぎてしまうことは、当事者にとっては必要以上の援助となり、やる気や行動を奪っていくこととなります。当事者よりも、援助者のこうなってほしいとか、こうしたいという気持ちが優先されてしまうことが原因の一つだと思うのですが、「過不足ない援助」を目標として実践していくには、どのような点を慎重に取り組み、また注意していくことが必要でしょうか。

●この「過不足ない援助」という部分が対人援助学のキモなんですが、マクロな部分からミクロな部分まであります。
 不足しているときはわかりやすいんですけど、いま、過剰な部分というのに、特に気をつける必要があるような気がします。

1)「教授設定」の行き過ぎ:1998-1999の連載や、今回の連載でも紹介しましたが、対人援助実践の機能としては、「援助」、「援護」、「教授」という3つのものがあり(この順序も重要)、それが連環的に発展し当事者の負担がより少なく行動の選択肢の拡大が可能になることが「対人援助の進歩」と説明してきました。
障害のある個人の行動の成立について、援助と援護による環境の側の変容がすでにあり、当事者の側が一定に負担のない形(つまりは今の状態のまま)でそれが可能であるのに、従来の環境設定を想定して必要以上に当事者に教授してしまう、というのが、第一の過剰のタイプだと思います。
 このことは、例えば学校の先生や福祉職員が、必要以上に、「本人のため」(「世の中は厳しいんだ」)という「善意」のもと、過剰に当事者の不得意部分を「伸ばそう」としたり、「普通にできるようになったら社会参加ができる」という(これまでは常識的な)特定の援助者がひとりで作業を囲い込みすぎるような場合に生じやすいことだと思います。
 ただしこのことは、現状の具体的な環境設定がどうなっているかについてについての情報や、うまく学校から地域(生活や就労の場)に受け渡していくための具体的なプランが必要です。関連の職種の人たちと「連携」することが不可欠となるわけです。


2)「援助設定」の入れ方の問題
 上記の1)で述べた意味での狭義の「援助」の定義は、行動成立に関して先送りすることなく今、環境設定によってそれを実現する作業です。その場合、以下のような具体的な方法があると思います。

①強化のレベルを下げて今行動を成立させる
②反応の形態にこだわらず、今できる反応形態で行動が成立するように強化随伴性のルールを変える。
③本人の「選択」を尊重する
といった内容が含まれます。

 ①の内容は、いわゆる行動形成(shaping)のときのある時点での状況といえます。この場合、基準を下げたまま反応形態が動かずに、目標となる基準とならない場合があります。それが現時点での当事者の限界であれば、そこでの基準こそが当事者に必要な「援助設定」となるわけですが、一方、反応形態に変動がある場合、つまりさらなる「進歩」の可能性がある場合に、強化の基準を前より下げてしまったり、あるいは、同じ反応形態にピンポイント的に強化を続ければ、進展は望めなくなります。反応の変動性を起こしやすくする方法としては、「ためを置く」(実は軽く消去を入れる)といった具体的テクニックもあります。
 さらに行動形成中には、身体的援助や先行刺激を強調するようなプロンプトの操作があります。プロンプトというのも一つの援助設定ですが、先の強化基準の場合と同様に、もし可能ならばそれをフェイドアウトしていくことになります。ところが、フェイドアウトできないようなプロンプトの導入をしてしまう場合が往々にしてあります。「わたしの言うことをよく聞いているのよ」と言わんばかりのプロンプトの場合、あるいは、あまりに強烈な社会強化(耳をつんざくような「よくできました!」)をしてしまっている場合、当事者は、課題そのものの随伴性ではなく、ともかく指導者(援助者)に頼ることになります(「指示まち」)。援助者が、黒子ではなく主人公になってしまう場合です。ジョブコーチをやっているときなどでも、つい焦って、ほとんど罰に近い強い指示で行動を統制しようとすれば、せっかく課題オリエンティドに当事者の学習が進んでいるのに、また逆戻り(自分で工夫したりせずに指導者の顔色を伺う)といったことになってしまう場合があります。

 ②は、反応形態が違うんだけど機能として一致していればそれでOKとする、という援助設定です。手話が得意ならそれでOK、周囲の人も手話を学んでそれで対応するといった場合がその援助設定の内容となります。
 この場合、反応の形態が違っていても同一の機能であることを認める、というその機能の同定に関して勘違いしちゃうと、言うまでもなく援助ではなくなってしまいます。いま指導したい行動の機能というものがどういうものであるか、充分に吟味しておき、反応形態が違う場合でも、どういう操作がその機能を満たすことになるのかといった工夫を入れて絶えずピントはずれにならないように注意する必要があります。要求言語行動であれば、誤物品に対する否定反応が準備されているとかです。
 「機能的等価な行動を形成する」といういわゆるDRA手続きは、ポジティブビヘイビアサポート(PBS)の際のキーワードとなっていますが、文字通り現在出現している問題行動と等価な適応的行動を作ることが本当にいいのかという疑問があります。実際のPBSの文脈でやっている手続きとは違うような気がしますし。

 ③は、そもそも対人援助の一般的目標とは何かにも関わります。私の「対人援助学」(あるいは応用行動分析)の目標は、「正の強化を受ける行動の選択肢の拡大」と捉えています。あらゆる援助作業はそのためにあります。
近年、自発が難しい行動に対して、選択肢を提示し、自らに選んでもらうことでそれを可能にする方法があります。ADHD児の問題行動や集団参加のために、金山(2004・2005)は、対象児童に対して、「参加する/見学する」といった選択肢を提示したり、あるいは教室を離脱してしまう児童について「行き先カードを残していく」といった本人の行動選択を重視した手続きによって問題行動の低減に成功しています(これらの例は、夏休み以降の「実践障害児教育」の連載でも取り上げます)。
この「選択を認める」ということで行動が成立している場合、あくまで、先に述べた対人援助の一般目標である「行動の選択肢の拡大」ということにつながらないといけないわけです。「選択させればやってくれる」というのは、周囲の人間には大変便利なことではあります。「机を拭いて」という指示には問題行動でしか応えてくれない人に、「机と椅子とどっちを拭いて?」という「選択」を認めると、スムースにやってくれるという研究論文がありますが、ちょっとダマシっぽいですよね。本来の行動選択肢の拡大に結びついているわけじゃないですから(その論文でも、査読者に指摘されたのかそのような記述を付加してありました)。



3)直裁に援助が必要かを尋ねる方法
 今、当事者である「あなた」に対して行っている援助行為が、本当に「過不足ない」ものであるか、本人に聞いてみることも必要です。これがまさに「自己決定」ということを考える上で重要なポイントだと思います。
 簡単に言えば、つねに与えられる選択肢に対して「悪いけどそれは嫌」とか「悪いけど別のやつ」といった機能を持つ行動を当事者に常に担保するということです(Nozaki & Mochizuki, 1995)。1999年の実践障害児教育の連載(後半の方)に詳しく書かれていますのでそれを参照ください(私のHPにリンクあります)。
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/14-Mochizuki(1998-1999).pdf
 与えられている「選択肢」の否定に関する技術は、与えられている「援助」の否定についても応用するすることができると思います。これも「FC論争批判」として、私のHPにリンクがあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/FC.html



写真は京都駅でみかけた犬のおまわりさん