昨日の研究会(研修会)へのコメント

marumo552006-07-29

 昨日、参加していただいた同友会の方々からご挨拶やコメントなどを頂いております。ありがとうございます。その中の質問に関して、お答えします。あんまりきちんとお答えできてないですが。

社会福祉法人 京都障害児福祉協会 京都障害者就業・生活支援センター 中西大作氏からのコメントとご質問:

 支援センターの中西です。
 昨日の SJC合同研究会、大変、有意義な時間を作って頂きありがとうございました。お洒落なブログの方も早速アップされていて、楽しく読ませて頂きました。正の強化「やったぜ感」が自己の行動を組み立てていく上で重要であること、非常に印象的にかつ明瞭に理解できました。 
 非常に楽しく、あっという間に時間が過ぎましたので、メールにて失礼ですが、少し
質問をさせてください。
 Q:応用行動分析学では、その人の属性(能力)ではなく、環境の相互作用を選ぶことを宣言します、というお話であったと思うのですが・・・
養護学校の実習においては、実習先の環境や作業の課題分析からのアプローチが主であって、実習生の本人分析(強み、弱み)には、あまり実習結果の要因を求めないという考えでよろしいのでしょうか?
 私どもの支援センターの就業相談上の実際の悩みでもあるのですが、先生が提唱されているような、援助つきのトレーニングを残念なことにうけていない障害者で、離転職を繰り返されている場合、また、今から3年かけてじっくりと練習できない場合→どうしても、本人理解の手がかりとして、まず、これまでの仕事の向き・不向き、離職理由、好き、得意なことを聞く、職業センターから取り寄せた職業評価など・・どれも属性にばかり目を向けたアプローチから入りがちです。
 本人の特徴はどうも○△□・・で、それに会いそうな仕事は、A社、B社、そしたら、実習においてその特徴がうまく仕事場面で生かせるような環境設定を考えようという具合に、昨日のお話から行くと、どうも順序が逆と言うか、本人の今を認め励ます以前に、負の強化の話題から入っているようにも思いました。
 実習と実際の就職場面と違う面もあるとは思いますが、できれば、先生のお考えの発想で自分で選び獲ってやった、良かったとハッピーになれるよう考えたいと思いますので、少しご意見頂ければ幸いです。


以下、私のリプライです。


 コメントをありがとうございます。大変、核心をついた御質問でもあると思います。
 職場の選択と当事者の能力が無関係というわけではもちろんありません。当事者の希望と選択肢の間に非現実的な距離がある場合には、やはり無理なものは無理です。
 行動分析学においても、もちろん現在の生物学的制約が「ない」としているわけではなく、自らの「職制」といいますか「担当部分」について、あくまでも環境との関係における可能性を追求する役割にあるということです。
 ただ本人の「適性」といわれるものが、ほんとうに現在、適切に把握されているか、というと、まずそこには若干問題があるように思います。これはいわゆるテストといわれるもの全般に共通することですが、その多くは、短期間に対象を測定し評価するところに存在価値があるように思います。行動分析学的立場からいいますと、まず、この短期間で対象を把握するのは無理と考えています。時間をかけ、繰り返しのある行動(環境との関係)を観察してはじめて理解が可能というふうに考えるわけです。そういう意味では、あまりありがたみのない方法論なんですけど、時間をかけるということ、今風に言えば、スローなアプローチというのが対人援助においては必要な要件ではないかと考えます(このことは、わたくしのHPの「最近思うこと」の中の「デニーズへようこそ、お客さまの平均年収は・・」でも触れていますのでご参照くださいhttp://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/thinkabout.html)。
 学生ジョブコーチ(SJC)というものを始めてみて実感したことは、院生の発表でもあったように、仕事を手伝うという関係の中で、かなり濃密に実習生の生徒さんと付き合うことができるということです。これはまさに実習の援助ならではの事でもあるのですが、同じSJCが、ある実習生について同一の職場で年次を超えて2回目の実習をしたり、同じSJCと実習生の組み合わせで別の職場への展開をはかったりということが起こります。しかもそれまでのデータ(どんな援助があれば、どれくらいの期間で、ある仕事を達成できるか等)を持っていますから、そうした時間軸の流れの中で、実習生の能力の変化や進歩というものも一定把握しやすい状況があります。
 いわゆる適性といわれるものは、従来は、既成のテストパッケージの中で測定されたものである、という認識をわれわれはつい持ってしまいますが、それはいわばインスタント食品のようなもので、本来は、上記したような時間の流れの中で理解しうるものだと思います。もちろん、学校の中での個別支援プログラム(IEP)というものは、そのような役割を持つべきものなのですが、充分に情報移行が可能となるほどには使いこなせていないのが現状だと思います。個人の「属性」というものも、ファーストフッド状態の中では、やむなく表現せざるを得ない「ある時点」でのピンポイント的な状態像という側面から逃れられません。

 もちろん時間をかけられない現実というものがあるのも承知しています。一般のプロのジョブコーチの現在の役回りは、いったん就職したものの、続かなくなってしまったというような何らかのトラブルシューティングのような形が入らざるを得ません。そこではとかく対象の欠点のようなものが表面化してきてしまうきらいがあります。さらに次に向けてそれほど時間をかけられないという背景もあるわけですから、ともかく、相手を短時間に把握して、これにマッチしそうな職場はどれか、というふうに急いで作業をすることが求められますよね。

 学生ジョブコーチの特徴は、長期間つきあうことで、従来の「属性」といわれるものとは異なるやりかたで対象の個人の行動特徴を発見し、さらに、その情報を伝達するフォーマットを開発するところにあると考えています。その情報には、「***ができます」という通信簿方式だけの内容ではなく、「***があれば、***ができます」といった、「援助設定」も含むことが重要であると思います(「援助設定」の意味については、私のHPの「具体的研究」の中の、望月昭1998-1999:講座コミュニケーション指導・再考(10回連載).月刊実践障害児教育をの第一回を参照ください。行頭の・がリンクスイッチです。以下のURLへうまくすれば直接とびますhttp://www.ritsumei.ac.jp/kic/~mochi/14-Mochizuki(1998-1999).pdf )。

 ご質問の、最初の部分にもどりますが、一種の楽観主義「なんとかなる」という立場は、「できないこと」を生物学的個人属性に帰するのではなく、何か手があるはずだと努力を続けることを指すわけですが、もちろんこれは、ある意味、極めて厳しい「力技」でもあります。力技というのは、本人の能力(ability)をシェイプアップするという意味での力技ではなく、環境設定を変更したり工夫したりすることで、つまり「援助つきの力」(=strength)で、行動を成立させるために「援護活動」もしなくてはならない、というところにあります。環境を変えるというと、一足飛びに革命的な発言のようですが、発表にもあったようなセルフチェックリストとか作業ノートのようなものも「援助設定」に含まれますから、案外日常的なものです。
 「援助つき力」というのは、なにか障害のある人に特別のことをするような印象もありますが、実はわれわれだって、色々な物理的社会的援助設定によって、なんとか毎日を切り抜けているわけです。「障害がある」というのは、その援助の形が多数派の人とはちょっと違うだけであって、それは少数派ゆえに目だってしまうのですが、特段、過分なことをするという意味ではありません。障害があるがゆえに、単独能力(ability)をことさらに求められるというのはおかしな話です。行動分析学的な立場からいう、「なんとかなる」というのは、この援助つき力を含めて、行動は成立させられるということであって、個人的能力(ability)を伸ばせるという意味では必ずしもありません。とはいっても、行動分析学がこれまで社会から求められてきた役割というのは、このabilityを伸ばすという部分で、それはもちろん、他の学問領域より秀でた技術を持っているのは事実なんですが。

 長期間にわたった「適性」の判断、そして「援助つき力」といったものは、現状の障害者の就労場面では、現実的でないというご批判はもちろんあると思います。また自立支援法の制定で、こうした「ゆとり」はさらに失いつつあるというのも現実だと思います。
学生ジョブコーチというもの、あるいは大学というセクターが、そうした部分を積極的に補完(というか、これまでもなかったサービス部分を独自に担当)することができないか、というのが、現在のオープンリサーチセンター事業のひとつのビジョンです。
 ですから、学生ジョブコーチというものは、現在のプロの方がやっているジョブコーチを学生がやってみる、というものとは意味が異なります。そういう意味では「学生ジョブコーチ」というよりは、学生サポーターとか別のものを名乗ったほうが適切かも知れません。現在、学生ジョブコーチの作業は、場面によっては(ほとんどかな)、コスト度外視のジョブコーチをしているといってもいいと思います。長期間にわたって、個人につきそい、毎日克明な記録をとり伝達していくというのは、とても職業的な観点から言って、割りにあうものではないと思います。現在は、それは学生の学びというメリットと合致しているからできるわけです。その意味では、大学というセクターのまったく新しいヒューマンサービスのシステムであるわけです。