井上先生のブログでのコメント

marumo552006-09-20

 先の、特殊教育学会でのシンポジウムにおける井上先生のコメントの内容が、
           http://aba.jugem.jp/
に、井上先生自身が書かれていますので参照してください(楽しいリンク返し)。

 福祉文脈からの自己決定とは、「行動選択肢の拡大のための機会」という援助設定と必要な教授設定の導入そのもので、その時点時点で完結したものとなりえます。「行動的QOL」をこの選択肢の拡大と同義のものとするのもそうした所以です。この場合は、「周囲の人間(援助者)が、本人に良かれ」(NEEDS)と思って設定する環境設定ではなく、当事者の言葉どおりのものを周囲が引き受けるという意味で「産地直送」のものであり、仮にその内容が「?」であっても、基本的にそれを受け入れなければ、それまでのパターナリズム的援助からの脱却はできないという主張をしてきました。その意味では、DEMANDS(文字どおりにその時点での当事者の要求)の実現であると思います。かつて、要求言語行動(mand)の獲得を巡って、20年も前に、学会なんかでモメたのは、NEEDS(援助者や保護者) とDEMANDS(当事者)の対決のようなかたちであったように思います。そして福祉文脈においての自己決定の成立をめぐるこのDEMANDSを引き受けていけるという援助のありかたは、「成人」を対象としたモデルであったともいえます。
 実は、私の中では、この「自己決定」を、子どもにはどう当てはまるのかということについては、思い悩んでいました(います)。自己決定問題を考える際に、さんざん引用したり参考にしたりした笠井潔「国家民営化論」(カッパサイエンス:1995)でも、確か、こどもについてどう考えるかというのは保留されていたように思います。
 学校教育場面における自己決定の問題は、ひとつには、上記のような成人モデルにおける、サービス提供者とサービスの消費者(生徒)という権利問題としても取り上げられるし、一方で、マンドという基本的社会行動の学習という意味もあったと思います。
 学校という「教授」のメッカで、自己決定を許容する様々な仕組みを導入することで、子どもが獲得する内容がなにか。いわゆる、「援助」→「援護」→「教授」という連環的発展の中で、どのような具体的な展開となりうるのか。そのエビデンスがいま欲しいところだと思います。
 シンポの当日の井上先生の質問も、その部分についての指摘であった解釈しました。

ブログでは、井上先生はこのように書かれています。
 
 「スモールステップや漸次的接近法は教師が望ましい方向を提示し、そこに近づける手続きであるが、しかしそこに「穏やかな否定」を含めた選択機会を設定し、長期的にそのような随伴性を設定していくことで、最終的には自分で否定を含めた選択を行いながらも「望ましい?」方向(別の方向でもいいのだが)に収斂してくるという現象について興味を覚えた。効率的に導かれた行動と、そのように選択された結果の行動(たくましい行動とでも言うべきか)とでは維持、般化においても様々な違いがあるに違いない。」
 「望ましい?」に、「?」がついていることも、この問題をどう扱うかの課題意識に関して、大変共感を覚えます(笑)。「たくましい行動」とされている部分が、わたくしも、今回の香川大学養護の先生方のいう「WANTSな子ども」ということであろうと思います。
 ただし「たくましい」ということは、フィジカルな問題ではなく、社会的関係の中での「たくましさ」であることは言うまでもありません。そしてこれをリアルタイムに「今」許容していく援助設定と教授内容が、従来の教育とどう違うのか、それが「自発性」「主体性」といった内容を育てようとしてきたこれまでのものと、どう違うのか、というのが一つの論点でしょう。前川先生の質問とコメントもそのような点にあったように思われます。山田岩男先生(1995)の引用は、最初から、学校教育の中で、真正面から自己決定をいれた教育が社会的行動の発展の可能性を持つものであることを示したプロトタイプであろうと思います。また教員がそこに「子どもの発達」の本質を実感することができた、というスタンスも重要ではないかと思い、長々と引用させてもらったわけです。
 WANTS教育がもたらす成果というものが、井上先生が言っているように、般化・維持といった問題や、様々な社会的場面において、子どもがどう対応できるようになるのか、IEP的にいえば、このWANTS教育の長期目標とその具体的指標というものをどうするのか、というのが、最終的なコメントと香川グループに対するエールになるんでしょうね。