冨安芳和先生が亡くなられました

marumo552007-11-16

 私を愛知県コロニー発達障害研究所の研究員として拾ってくれた恩人でもあり、また能力開発部の部長という上司でもあった冨安芳和先生が14日午前0時40分、横浜市の病院で肺炎のため亡くなられました。昨15日に、名古屋市に行われたお通夜に参列させていただきました。奥様のステファニーさんとは「発達障害に関する10の倫理的課題」(二瓶社)の翻訳も一緒にした関係もあり、以来メイルで連絡をとりあう関係でしたが、約8年前に脳梗塞で倒れられたときも、今回の訃報もステファニーさんご自身からお知らせをもらいました。

 冨安先生は、愛知県コロニーでは、発達障害研究所のほぼ開所時から能力開発部の初代部長として、知的障害のある個人に対するノーマリゼーション/インクルージョンの理念にもとづく実践や実践研究に携わり、この領域で働く実践者・研究者に大きな影響を与えてこられました。
1983年に、私が愛知県コロニーで研究員として職を得た当時、冨安先生は、ノーマリゼーションの理念にもとづく実践展開と同時に、応用行動分析学の応用について、単なる「オペラント条件づけ」ではなくそれを超えた、正の強化による生活環境の実現という発想で検証を進められていました。先行刺激を基本に「療育」をする施設と、行動を待って後続刺激(強化)によって「療育」をする施設の違いを明らかにするといった実践的研究をされていたと記憶しています(いずれ詳しいビブリオグラフィーを作成しようと思っていますが)。また、「おまえ、確立操作(estblishing operation)って知ってるか?」と、当時の最新の行動分析学の知識を吸収され、部下に自慢(笑)していたことも思い出します。私には、まずノーマリゼーションに関する教育をしてやろうと考えたのか、「米国におけるNormalization 原理具現化-マサチューセッツ州の事例を中心に-」というレビュー論文を書かせてもらいました(望月、小塩、冨安,1983)。そして何より思い出深いのは、同じ年に、インドネシアジャカルタで開かれた第6回Asian Conference on Mental Handicap に連れて行ってもらったことです。発表に先立ち、しばらくコロニーで英語の先生をつけてもらって発表練習させてもらいました。ずいぶんと教育していただきました。

 冨安先生からは数多くのことを学ばせてもらいました。すでに、他でも書いてきましたが、最も薫陶を受けたのは、障害のある個人に対するわれわれのスタンスであり、それは「×から○ではなく○から×」という、最近もわたくしがよく引用する、「今を認める」発想です。当時は、一般的な障害者に対する「受容的態度」程度の理解しかできなかったのですが、最近は、これこそが応用行動分析の基本的態度だと考えるようになりました。冨安先生が教えてくださったこの基本が、「行動福祉学」とか、最近の「対人援助学」の発想の源泉となっているわけです。

 冨安先生は、慶應義塾大学に移られてからも、インクルージョンの発想を世間に知らしめるための活動を精力的にされていました。「川を渡る:コミュニティと障害における考え方の革命の創造」(デイヴィド・B.シュウォルツ/冨安芳和 /慶応義塾大学出版会 1996)、「障害学生の支援(シリ−ズ共生 ) 新しい大学の姿〜AHEAD日本会議より」(冨安芳和 /慶応義塾大学出版会 1996)、「ソ−シャルロ−ルバロリゼ−ション入門ノ−マリゼ−ションの心髄」(ウォルフ・ウォルフェンスバ−ガ−/冨安芳和 /学苑社 1995)、「ADAの衝撃障害をもつアメリカ人法」(八代英太 /冨安芳和 /学苑社 1991)、「コミュニティ生活を創る発達障害者への新しいアプロ−チ」(冨安芳和 /ぶどう社 1989)などの著書・翻訳書の仕事でもそのことがわかります。

 なかなか、おっかない先生でしたが、わたくしがコロニーに就職した当初、何していいかわからくてプラモデルを勤務時間中に作っていたら(もう時効)、気づかぬうちに後に立っていて、こらまずいと、びびってたら、「ふううん、君は車を作るのか、おれば船だけどな」と何事もなかったように立ち去られるという、やさしい(?)一面もお持ちでした。

 お通夜では、タキシード姿の冨安先生と最後のお別れをしました。微力ながら、先生の残された障害領域における発想や姿勢を継承していきたいと考えております。