高機能自閉症児およびアスペルガー症候群児の支援

marumo552007-12-02

 人間研主催「高機能自閉症児およびアスペルガー症候群児の学童期の発達特徴と教育的支援」が開かれました。このシリーズ、本学、荒木穂積先生の企画で、通算これで3回目。いつものように約300名という多くの方に参加いただきました。
すでに紹介したように、このシリーズはPDFで人間研の刊行物に示されています。今回の内容も年度内にPDFで掲載される予定です。以下では私の指定討論を要約したものと改めてのコメントを加筆します。


「対人援助学」の立場からコメントします。「学童期」というからには、学校教育という「関わり方(関係)」のシステムの中で、支援の方法について考えることが求められると思います。京都市では「個別の包括支援プラン」というものがありそのことを集積し公共化する試みが行われています。一般的にIEPとも呼ばれますが、グループとしての対象(アスペルガーとか自閉症とか)ではなく、個別の(固有名詞的対象)生徒を対象とした「対人援助」(=支援)を目的としていると言ってよいでしょう。
そこでは、生徒の属性(ability)を「知って」から、関わりの方法を知るという、一見、常識的な、しかし必然的に属性グループにいったんはめ込み、それにあわせて対応を行うという順番ではなく、充分な関わりの中から、個別の生徒の可能性(できる=strength)を、状況こみで(=援助つきで)発見しそれを展開するという基本方針があります(あとで窪島先生からはabilityとは、教育的文脈ではそもそも「関係」の記述であるとのコメントあり)。

 一昨年の発表でも述べましたが、アスペルガーとか自閉症というくくり、さらには、年齢順にその「特性」を捕まえ、それに「対応する」という方法から、果たして個別の生徒の可能性(「できる」)の展望がみえるのか。「症状」の名前でくくられた生徒に対しては、可能性(「できる」)ではなく、困難性やネガティブな記述の表現が増えるのみではないでしょうか。現に、講演や発表の中でも、「できない」ことの特異性の表現が目立ちました。対応の難しさから症状名ができるのであって、症状名があるから対応が難しいのではないのですからこれは当然なのですが。その意味では、発達課題ではなく全て教育的課題なのだと「教育」に携わる人間としては心得ておく必要があると思います。

 個別の包括支援は、人的・環境的なリアルな関係とひとりひとりの生徒との関わりとそれをもとにした書類です。それは、いったんグルーピングされた生徒(属性名として名指されたもの:そのように名指されたものとして「知る」)を対象とするのではなく、個別の生徒の「できる」可能性を実践的にさぐりその継続的な援助を行うという、「知る」、「治す」そしてあえていえば「教える」でもなく、「たすける」ということを過不足なく行おうとする「支援=対人援助」の趣旨と一致します。

 「できないことを補完する(×から○)」ではなく「『できる』を増やす(○から×:あるいは○から○)」という方針を徹底することを学校での個別の包括支援の作成と運営に活かすには、どうすればいいか。現在、具体的な方法を検討していますが、その趣旨を表す言葉として、前期の教職GP以来、総合支援学校や仏光寺のお座敷では、以下のような表現をいま使っています(ネバダの武藤先生、読んでるう?)。

「教育的支援をする生徒は、FA宣言をした運動選手のようなものである。学校の支援とは、その選手のキャリア・アップをはかる作業である。個別の包括支援プランとは、選手を“高く”売り込むための、そして異動後のキャリア・アップも促進する売り込み書類である」というものです。

 そして現状での包括支援の内容については、
「点としてのアセスメント、カリキュラム案、そして、さらなる「点」としての生徒の評価という作業では、個別の生徒のキャリア・アップ推進のための書類(個別包括支援プラン)はできない。具体的な対応の中で、先生(や環境)と生徒の行動との「関係」が連続的に生じている様子を記述することが必要」というものです。

 ここで指定討論者として具体的な問題として課題を提起するとすれば、
1)個別包括支援、就労実習や学内の実践がばらばらのままで進行しないためには?
2)個別包括支援プランを、支援者が、移行先にも影響を及ぼす「書式」とするには?
3)『気づき』(ポジティブな意味で)を共有(午前中の小枝先生のご発言にもあった)は、具体的にはどのようにするか? それぞれの発表者の方は学校へ何を提言できるか?
 というものです。

 今回、発表の中では、学校というものの役割について、ほとんど言及されなかったので、この質問は「ないものねだり」ではありますが、援助のシステムが言及できないような「障害属性」の記述では、このシンポジウム自体の「進歩」がないというもの。そういう意味で、これは主催者側のひとりとしての反省をこめて場外乱闘したものです(いつものとおり)。

 
 今回、TEACCHプログラムを紹介された岡田祐輔先生(西多摩療育支援センター)に対するフロアーからの質問「TEACCHとABAの違いは?」に対して、先生は「同じ土俵にはのらない」、さらに付け加えて「TEACCHは行動を変えるのではない。結果としては行動も変わることがあるけど」というお答えでした。これはいろいろな意味で考えさせられるものでした。もしABAと表現されるものが、「自閉症の治療技術」だと考え、いわゆる徹底的行動主義(ここでは徹底的に関係の学であると考えてください)のもとでの応用行動分析とは正反対のものと考えられているなら、まさに岡田先生の発言は的を得たものといえます。今回の岡田先生のお話しは、一昨年の某U先生の「TEACCHは認知心理学を基本にしています」って発表に較べたら、ずっと行動分析的なものでした。というか、ほとんど私の指定討論の「『できる』=“援助つき行動”=行動」という趣旨と等価ともいえます。ああ、いまやTEACCHのほうが、ABAより応用行動分析的なのか。治療技法としてのABAの世間的イメージは、もう誤解とかではなく定着しつつある事実なのかも知れませんね(溜息)。
 
 もうひとつ印象的な某先生の発言。「IEPではプロセスの記述がなくそれが軽視されている」というものです。行動的情報をつなぐ話で、むしろ先生のメモなんかのほうがよいのではないかというご発言もありました。IEPが、点と点しかみえないような第二の「通信簿」の機能しかないのであれば、それはそのとおりですね(実際には通信簿のほうが動的経過が書かれているという話もありますけど)。先生のメモにあたる日常の「発見」をIEPにどう反映させるか、そのためにはどうすればよいか、というのが私の指定討論での質問の一部でもありました。
 ただし、メモといっても、あまり信頼性のないものじゃ困るんですよね。FA宣言した選手のキャリア・アップのためにはそれではあまりに説得力がない。指定討論の石坂先生のエビデンスベースドが必要、という発言もこのことを言われたものと思います。”自由に院生に対応させて”そこで(たまたま)観察できた生徒の「できた」ビデオシーンだけじゃ、説得力がないと思うんですよ。