神戸市特別支援コーディネータ研修(その3)改

marumo552008-08-21

 ブログのカウンターが、21日に300を超えたのは、たぶん神戸市の先生方がのぞいて下さっているのだと信じて、さらにコーディネータ研修のことを書きます。
 
 個別支援計画の「更新」、つまり実践でわかった個別の生徒における「できる」(支援つきで行動成立)の加筆を促進するには、どうしたらよいか、というテーマは、昨年の教職大学院GP授業の最終レポートでもあり、また、8月10日の日本行動分析学会の特別講演における一番の課題でもありました。

 本来、生徒がキャリアアップした事実を確認できることが、先生の次なる「できる」ための支援の展開を勇気づける(強化する)ことになり、さらにそれが加速していく、それは先生自身のキャリアアップでもあるわけです。先生がいやいや仕事しているようでは継続性は期待できません。そこで、IEPに「できる」を加筆した先生にはボーナスを、という直裁な方法も提案しました。コミュニケーションシートでも、それが本当はやりたい、という先生も複数いました。一般企業では、そこでボーナスとか査定の対象となるのはごく当たり前のことなんですが、学校という、何をもって(企業でいうところの)『生産性』の向上なのかがあいまいな現状では、当然、異論もでるでしょう。「生産性」なんていう表現自体を拒否する先生もいるでしょうね。

 しかし、ある先生が、ある生徒に新たに「できる」状況を創造し、それを他の人にも伝わるような表現で「個別支援プラン」に加筆する。そしてそれをみた他の先生も、その支援の方法をみてもう一度場面を変えて確認して、それをまた加筆していく、そして、それなら確実そうだ、ということで、では次なる「できる」はなんだろうとまた試していく。そうした軌跡が、どんどんとその生徒の個別支援プランに書き込まれていく。ワクワクするような仕事じゃないですか。

 コーディネータの先生は、それぞれの生徒において、どれくらい「加筆」されていくのかを確認していく。すごく加筆が加速している生徒もいれば、全然、加筆がすすまない生徒もいる。均等に加筆される必要もありませんが、加筆が全然すすまない生徒については、関係の先生と新たな「支援:てだて」を考えていく。これがコーディネートという仕事ではないでしょうか。
 そもそも加筆が進んでいるか、進んでいないか、ということが、先生としての仕事内容として一番重要なのではないでしょうか。これは個別の支援プランを、「長期目標」−「現状」=次の課題 という引き算で考えるトップダウン的なものとして捉えるのとは全く違うものです。あくまでも一人一人の生徒の「キャリアアップ」軌跡として、本人も先生も保護者をも「勇気づけ」次なる支援を進めるための大事な装置であり、先生方の仕事の証明でもあります。

 
 さて、コミュニケーションシートとは別に、メイルでも多数の方からご意見や感想をいただいております。ちょっと全体の文脈からはずれますけど、異化のようなコメントもいただいてますので、ちょっと紹介します。

 ・・前略・・・・・・講義を聴きながら、いただいたA3資料の裏に、今受け持っている子どもたちへの新しいアプローチ(教材)をワクワクした気持ちで考えながら書いていました。(内職かな?) IEP本来の目的を明確に語っていただき、すっきりしました。「そうだ、まさにその通り」と頷きながら聞かせていただきました。
 さて、一つ根本的なところで考えてしまったことがあります。それは今日の講義では、援助(援護)を受けてでも、「できる」ということを体験させてあげることが、その人の生きている証、もっと言えば存在している価値であるかのように聞こえてしまいました。できる、できないということを考えることは、存在していることの意味を考えることの次のステップであると私は思っています。よく言われている「ありのままを受け入れる」ということです。もちろん、その状態でとどまっておれば良いというものではなく、先生の仰るように援助(援護)を受けて、「できる」ということを体験していくことは大切です。しかし、根底には、今、ここに存在しているだけで素晴らしという価値観こそが、人を生かすのだと思っています。その所が原動力となり、リハビリテーションをはじめとする、多くの支援、援助を受け入れていくことができれば良いなぁと思って聞いていました。存在そのものが認められると、次は人のために何かをしてあげたい、人の役に立ちたいと思うようになってきます。「できない」→「できる」というスキルアップが自分を喜ばせるためになされるのではなく、スキルアップすることで人を喜ばせることができる。そのことが嬉しい。そんな思いを持って取り組めると、より前向きな取り組みとなっていくような気がします。DoingよりもBeing。そんな価値観が根底に流れている教育を目指したいと思っています。偉そうなことを書いてしまい、すみませんでした。

 Beingとは、行動分析的に、あるいは対人援助的には、どのようなものでしょうか。一見、行動分析学などとは目標が違うようにみえますけど、実は、共通したものもあるような気がします。それについては、また機会を改めて。
 とりあえず、「ありのままに受け入れる」ということに関するはなしとしては、以下も参照してください。
 http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/taijin3.pdf
 内職してたみたいですが(笑)、なんであれ、わくわくして計画する先行刺激として私の講義が機能したならそれはそれで達成感あります。