サービスとホスピタリティ(その3)

marumo552008-08-23

 せんだっての北九州の松原先生の再質問(http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080817)について、いま思うところをコメントさせていただきます。(青文字が松原先生の再質問)

 ご丁寧な指導、ありがとうございます。私の中で不明確であった部分のほとんどを整理することができました。先生にいただいたご指導をとおして新たな質問をさせていただきます。

1. 最近の商いのサービスが、効率性を重視した「企業の利潤追求型」から有効性重視の「個客の満足度追求型」にシフトしているように思えます。いずれにしても、ホスピタリティを手段として、サービスを売る側のインパクトを顧客に与えリピーターを増やす、という戦略には変わりはないと思いますが、個客を主体として個客の満足度を満たす(その先には利潤追求があると思いますが。)サービスに価値を置こうとしているように思えます。
問題は、対人援助サービスにおいて、介護保険制度、障害者自立支援法指定管理者制度等の制度を背景に、その最終目標が(行動的QOLを含めた上ですが)被援助者を個客として利用者を増やす、いわゆる商いのサービスである利潤追求という経営的なミッションに否応なくシフトしているのが現状です。
 「商いのサービスの最終ミッションは、顧客の獲得と当該商品の継続的利用・・・・。一方、福祉等の対人援助職の最終ミッションは、・・・・行動的QOLの拡大です。」と述べられています。しかし、先に申し上げたように、対人援助サービスが商い化している状況において、被援助者のキャリアアップという行動変化によって援助者のサービス行動が強化されるという最もピュアな福祉の対人援助行動が、現状では被援助者の利用(購買)行動を強化することが重視されているために、結果的に援助者は被援助者をリピーターとすることを目的とした援助行動が強められているように思います。
先生は「手段や手続きへの感動を理由に、その援助者あるいは援助そのもののリピーターになる、というのは健全な事態といえるでしょうか」と言われていますが、現状では健全ではない状態に進んでいると思います。この現状をどのように捉えればよいのでしょうか。

 「福祉等の対人援助職」といってもいろいろあります。「対人援助」と名前がつくときには、いわゆる社会的弱者あるいは少数者、それゆえ支援の必要な人を対象として、権利確保や拡大についての作業を職業的に行っている人をさすものとします。いわゆる経済的な生活困難者、高齢者、障害者を対象とした福祉施設の職員、養護学校や普通校の教員、また心理臨床職、看護職などが含まれます。ここで「リピーター」という意味は、当該の対人援助組織を(他の同類組織と競合した場合に)選択する、利用しつづける、高い評価をする、という意味を含んだものであるとします。利用者の数を確保することは他の職業同様、その存続に不可欠であるとすれば、このような意味でのリピーターを確保しようとするのは、これも必然であろうと思います。
 それを認めた上で、当該個人のQOL拡大することと、顧客としてリピートすることが、矛盾しないで起こる場面と、ある種の利益相反事態が生じてしまう場合があると思います。
 これは現状の福祉の構造的問題としてもよく言われることです。たとえば自立支援法のもとでの支援費の額が、当事者が「重い状態」が続いているほうが施設の存続にとっても有利であることがあります。現状の障害認定区分の4以上でないと施設の採算がとれない、といった場合もあります。また移行支援施設にしても、サービスの単価は高くても、効率よく移行した場合に、その効率性に比例して利潤があがるというわけではありません。コロニー時代にも重心の施設を利用する人が能力があることが明るみに出てしまうと利用を制限されることから、「重い障害であること」を示し続ける必要があるということがありました。
 QOL拡大とリピートとが相反する場面としては、カウンセリング施設などにも存在します。何年もクライエントが通い続けているという話をきくと、通院すること自体が強化されている「カウンセリング」なのではないかと感じることもあります。
 これは制度の構造やマネジメントに関わる随伴性が、個人のQOL拡大という前提ミッションには相反する例です。
 そういう意味でのリピーターを生まない施設、言葉を換えれば施設での仕事が、再びその施設にもどらないようなQOL拡大をもたらす「キャリアアップ」を実現した仕事に、分化的な強化をできるような仕組みであることが望ましいと思われます。
 

2. 先生は「援助者のおかげで、できるようになったという気持ちは結果的に生じることがあ
っても、対人援助者がそれを強化として対人援助活動をすべきでないと思います。」と言われています。援助者の活動の目的が被援助者のキャリアアップにつながっているかどうかが重要なポイントであるとは思いますが、援助者の活動を強化する随伴性の一部に少なからず被援助者の?ありがとう?が含まれるため、「・・・・すべきでないと思います。」とは言い切れないと思うのですが・・・。

 次に「方法や手続きに対する被援助者の感謝や感動」が、リピータを生むかもしれないというミクロな対人援助者と被援助者の関係についてです。確かに、援助行動を支える随伴性には、被援助者による援助者への感謝といった社会的随伴性は無視できないものがあります。いわゆる「精神労働」である対人援助においては、そうした個別の社会的強化が強い効果を持つことも認めざるを得ないでしょう。
いくつかのエピソードを思い出します。今から、30年ほど前に、行動分析学の大先輩が、障害児教育をはじめたばかりのわれわれに、「特殊学級(当時)の先生から聞いたんだけど、『知的障害のある生徒は、一生懸命教えても、ありがとうと感謝されることがない。卒業生が担任を懐かしがってあの頃は本当にありがとうございます、と尋ねることもないと教育行動が消去されて燃え尽きがちです』と言っていた。だったら、生徒に『ありがとう』をシェイピングしたらいいと応えたんだよ」と語ったことがあります。当事は、なるほど行動随伴性の原理からも、もっともな話だなと思いました。
しかし、ごく最近、うちの学生が卒論のテーマを考えて、「特別支援学校(養護学校)の生徒に『ありがとう』を教えたいと思います。それによって、他者による正の強化を受ける可能性もふえて生徒のQOLもあがると思います」と提案したのに対して、わたくしは懐疑的でした。確かに、要求言語行動の成立(これは、もろに行動的QOL拡大の成立には必要条件でしょう)も、要求を充足する他者の行動を強化することでさらに拡大することは考えられます。
しかし「障害のある子供は他者に助けてもらう機会が多いから・・」という理由で、「ありがとう」を学習させるというのは、いかがなものか? 障害のある個人がその障害がゆえにさまざまな「援助」を受けることは、もちろん予想できるとしても、それは、果たして多数派の「健常者」が社会から享受している正の強化がもたらされるような資源配置以上のものであるだろうか、というマクロな視点も必要ではないか、とその学生には意見したわけです。もちろん、なにかの厚意を受けた場合、一般的には「ありがとう」ということは社会的マナーです。しかしここでの「ありがとう」の対象は、周囲の成人を含めた援助者を想定したものであり、その限りにおいて、卒論として、対象生徒に最優先して教えるべきものであるとは思えなかったのです。むしろ、現在、当該の生徒が「いまできる」ことで、周囲の人から、「ありがとう」といってもらえるような行動を形成すべきではないかと進言したわけです。
本題の援助者に対する「ありがとう」の問題ですが、上記のように、もちろん当事者が「ありがとう」と行動することを制限する気はもうとうありませんが、少なくとも、個別のホスピタリティに対してではなく、QOLの拡大に対する「ありがとう」でなければならないと思います。あるいは、「ありがとう」のかわりとして、援助者は、当事者のQOL拡大を確認することが大切だと思います。
また、援助対象にもよりますが、

1) ホスピタリティのある対応(サービス導入)
2) 援助つき行動成立(QOL拡大)
3) 達成感ゆえに「ありがとう」

という連鎖については、当事者自らも気づくことが「キャリアアップ」であろうと思いますから、そのようなプログラムとしてサービス全体を捉えるというのも援助者の戦略としてはあると思います。


 3.現状において不健全な対人援助活動が行われていると仮定しても、その行動が強化されているかと言えば、キツイ、キタナイ、ヤスイ労働環境という随伴生によって低下あるいは回避している(福祉離れ)状況にあります。不健全な援助行動においてすら強化されていない疲弊した援助者のサービス行動を高めるための操作可能な方法として、どのようにお考えでしょうか。
 
 この問題は、現在、日本中で問題になっていますよね。京都でも秋に、福祉職員のための「燃え尽きない講習」を安請け合いしてしまったのですが、ここでも、基本的には「援助者自身のキャリアアップ」の支援体制をつくることが必要だと思います。
  サービスとホスピタリティの問題でいえば、サービスによる被援助者のキャリアアップの実現が強化となることが本来の随伴性であることを主張してきました。それについては、その場限りのホスピタリティへの即時強化「ありがとう」の誘惑に屈することなく、サービスを継続するということが求められます。サービスに成果による被援助者のキャリアアップは、多くは強化を受けるまでに時間を要するものです。また、よくあるように、キャリアアップの実現には、マンツウマンの対人援助活動(「教授」「援助」)のみではなく、「援護」という周囲に向けての言語行動も必要となります。
  この2つの問題(強化の遅延、援護の必要)をともに克服する上で、援助者のサービス行動とその結果としての被援助者のキャリアアップとの関係(つまりは、自分たちの仕事の成果)を、単に、体で感じるのではなく、言語的に表現し公表することが重要だと思います。これは特別支援教育について、最近、ことさらに強調していることと全く同様です。
 松原先生の北九州こそ、どこよりも社会に向けて公表していたではないですか。また愛知県コロニーの「はるひグループ」も、北九州にならって(というわけでもないでしょうが)日本行動分析学会で10年以上発表し続けていたではないですか。
  昨今の切迫した状況の中で、発表の機会をつくることは、かつてより難しいかもしれませんが、こういう状況だからこそ、「公表の場」を設け、援助職員が主人公となる場を造る必要があると思うのです。いまではHPやブログといった公開方法もあることですし。
  学会も、本来その機能を持つ場だと思います。来年から発会する予定の「対人援助学会」はそうした機能を第一に考えています。
  援助者自身のキャリアアップというのは、自らのサービスが被援助者に効果的であったそのプロセスを社会に公表し、それまで出来なかったことについて、自らが果たした役割をきちんと言語化することで成り立つものだと考えています。


 4) 被援助者のキャリアアップを最終ミッションとする対人援助サービスについてご指導いただきました。この場合、「被援助者−援助者」の関係で捉えるのではなく、「被援助者−援助者− 事業主(組織)」の関係で考えた場合、援助者のミッション、援助者の行動を強化する随伴性が、先生の言われる「健全でない状態」も含めて考えざるを得ないと思うのです。「社会的成員−被援助者−援助者」の関係で捉える対人援助学において、そこに「援助者−事業主」を含めた場合の援助行動の随伴性についてどのようにお考えでしょうか。また、対人援助学会においては、「対人援助職とその属する組織との関係」、また「勝ちの心理」との連携についてどのようにお考えでしょうか。

 援助者と事業主との関係の問題は、まさに組織のマネジメントに関わる問題です。昔から、施設では「施設長さえ変われば」とか、学校では「校長先生さえ替われば」などという修辞がよく言われましたよね。しかし、施設長も校長も、組織存続のためには「勝ちの心理学」的なマクロな成功をおさめる必要も出てくる、と。 この「ねじれ」は、評価されるべき個別の「サービスの質」とは、本来、相容れないものであるはずです。それなのに、これまでねじれ続けてきた責任は、ひとつには、既存学範におけるエンドレスな被援助者における目標設定、端的に言えば当事者を中心とした「キャリアアップ」というものが、きちんと理解されてこなかったせいだと思います。
4)で述べてきたように、被援助者と援助者がともにキャリアアップするマネジメントがなければ、いずれにせよ継続は不能であると思います。一部の人間の熱意やチャリティではもうやっていけないことが露骨に示されてきたのが現在の福祉や学校教育というサービスの現状であろうと思います。
そのことを含め、いま、サービスの現状を可視化し、表現していくことが、これまで以上に求められているのだと思います。さらには、可視化、表現、言語化という実践作業に必須の事柄は、特定の職制が単独でサービスを簡潔するのではなく、連携と融合にも必要であると考えます。これはすでに何十年も、松原先生などとは話しあってきた内容ですが、お互い、少し年齢も増して、さまざまな関係諸機関とも口をきけるようになった現在、実働しなくてはいけない部分であろうと思います。
  
6) 行動的QOLを「キャリアアップ」という言葉で表現をされていますが、「正の強化で保障された行動の選択肢の拡大」という表現と、「キャリアアップ」という言葉の間の意味の共通部分と相違(進化)部分について、またキャリアアップとそれを実現するための個別支援計画のあり方としての基本的な視点についてご指導を願いたします。

 「キャリアアップ」という言葉は、2007年度の京都の教職大学院GP授業でのキャッチコピーである「障害のある個人はFA宣言した野球選手である。そして、IEPは、そのキャリアアップのためのプロモーション書類である」というやつから、ずっと使用しています。
 特別支援の場合には、うっかりすると「卒業と就職」が最終目標となって、トップダウンなスキル教育が必要だ、みたいな文脈で、個別支援教育(IEP)とその実行プランが造られてしまうところがあります。「卒業生が100%就職しました」という「勝ちの心理学的」な組織利益が優先してますよね。
 ところが、当の就労先でもある京都の中小企業家同友会の人から言われたのは「就労した後のQOLの拡大を考えているのか」という言葉でした。
このことは、QOLの拡大が、どこかの社会的基準に合致することで終点というのではなく、継続的に行われなければならないという、当たり前のことを、改めて我々に気づかせてくれたわけです。

 ですから行動的QOLと「キャリアアップ」は、ひとつひとつの選択肢拡大という意味では同一なのですが、それを、あくまで継続的に支援する(あるいはそれが可能なシステムを作っていく)というスタンスが必要だということを強調したのが「キャリアアップ」です。応用行動分析でも、これまで発表されるものは、多くは単一の行動獲得です。もうひとつ大きな文脈で、次につながる可能性をより具体的に示していく必要があるのではないか、という意味も「キャリア・アップ」という表現にはこめられているわけです。

 昨日のブログにもあった、就労という「入り口」を終点として考えるのではなく、たえず「出口」を考えるべきだというのも、離職や転職するという意味ではなく、次なるステップも可能にするような、そういう運営体制を地域の連携的作業の中で考える必要があるという意味であろうと思います。


 写真は、A先生からいただいたカレーです。いやこれは確かにおいしい。夏の盛りを懐かしむような味とでも言うのでしょうか。春にはタケノコたいたんをいただきまして、そのタッパも返却してないのに。
こんどはリベンジ、じゃなくてお返しに、ビシソワーズを詰めてタッパを返却しよっと。