サービスとホスピタリティ(とりあえず最終回)

marumo552008-08-24

 ちょっと前(http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080802)、KASUGAIさんからのサービスとホスピタリティへの課題について、遅ればせながらリプライします。総括的に、これまでのブログや関係する私の書いたもののリンクなども貼っておきますね。DLして参照していただければ幸いです。(青文字が、KASUGAIさんのコメント)

 8月2日のサービスとホスピタリティについての云々はプリントアウトまでして拝読させて頂きました。ん〜、凡人には中々難しい文脈で、理解するには時間が掛かりそうですが、昨今の福祉事情も、たった10数年で様相が変わってきました。よって、対人援助をサービスか否かと科学的に判断することとなってしまうのでしょう。基本的に私は援助対象者が顧客などという括りで考えるのは苦手なので、現在置かれている立場では非常に心を鬼にして後輩の指導を実践しています。
          (中略)
 援助対象者にとってのQOLを可能にするには、その周囲…つまり家族のQOLを満足させる必要もあります。となると援助対象者の満足と家族の満足はイコールではなくサービス&ホスピタリティ両者を具合よく提供しなければならず、これを実践するために神憑り的テクニックを習得しなければならない状況に至るわけです。
そして、今後医療の場で働こうと目標を持っているはずの学生達は、心理の授業において、援助を必要とする者が具体的要求を提示しない場合は『見なかったこと聞かなかったことにする』と言ってのけるのです(--;。臨床心理士の講師も右往左往するだけで、何の答えも出せないまま時間だけが過ぎていく…あり得ない状況が、末端の凡人の間で発生しているのです。人間不信に拍車が掛かる毎日です。

 「対人援助」は、ま、すでに英語でいえば、Human Services ですので、既にいやおうなくサービスなんですけど、確かに現在、一線で頑張っている福祉関係者、教育関係者ともに、顧客サービスという表現は抵抗があるでしょうね。こういう表現をすることからすでに、利潤を追求するだけのサービス業というイメージがありますからね。これまでわたくしも対人援助を「サービス」ととらえるような主張をしてきました。そして「キャリアアップ」というキーワードによって、一般のサービスと対人援助領域におけるサービスとの相違点を以下の昨日に至るまでの松原先生とのやりとりで考えてきました。
(その1)http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080802
(その2)http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080817
(その3)http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080823

 その意味では、少なくとも現状では、単なる顧客商売とは違う目標設定があるともいえます。
 一方、「科学的」に考えるか否かについては、これは職業的対人援助者の、いまもむかしも変わらぬ条件だと思います。科学的ということは、自分の対応を公共的な言葉で「表現」できるか、ということですから。この「表現」の問題も、すでに特別支援教育にも絡んでこの1年間、行動分析学との親和性としても繰り返してきたところです。感情労働に「ことば」による表現はいらない、という感覚はつきものですが、それだったら保護者の人と同じだと思います。プロの仕事として考えた場合です。

 対人援助における「表現」については、朝野先生との「ハブとマングースの共食い」に関する日記でも書かせてもらいましたが、以下、ご存知のように確認してきたところです。

http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080222
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080811
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080819
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080820
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080821
http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20080822

  さて、対人援助者は、当事者だけでなく家族の満足も得なくてはならない、ここに、松原さんもいう援助組織というセクターのみでなく家族も加わるわけですよね。そこで「神懸かりなテクニック」が必要である、と。これは、学校でも福祉施設でも医療現場でも思いは同じですよね。ここで当事者へのサービス、家族へのホスピタリティという図式になるのは、家族こそがサービス選択のスポンサーであることが多いという理由もありますよね。昨日の日記にも書いた、直接の対人援助者、組織との対応のねじれにも似た状況がここにもある、と。
 これまでの障害領域において、当事者とその親御さんとのあいだに、利益相反がおこることは「パターナリズム」といった言葉でも問題になってきました。自己決定といったテーマがクローズアップしてきたのは、親御さんの価値観ではなく、当事者自身の選択による「産地直送」(応用行動分析授業レジュメ第9回:http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/0808.pdf)を可能にするためともいえます。
 
 当事者にはサービス、親御さんには(表面的な意味での)ホスピタリティという、ねじれの問題については、やはり当事者に対して援助者がどのような対応をした結果、現在どのように「できる」という状況があるのか、また、どのような方向で作業を進めるべきかについて、つまりは「キャリアアップ」の軌跡と方針を、きちんと示すことが求められているのだと思います。
このことは、学校でも同じようなことが起こっていると思います。ねじれの行き先が、モンスターペアレント(いよいよテレビでもやってますねえ)じゃないですかね。最近は、大学でも類似の事件は起こってますねえ。

 養護学校でも、最近(かな?)は、学校に対する評価を保護者の人から受けるシステムが入っています。その評価を公開もしています。これ自体は結構なことだと思うのですが、そこで評価するのは大雑把に言えば(かつ意図的に批判的に書けば)「カリキュラム」に対する評価や、生徒自身の「満足度」であったりします。こう並べると、もっともらしいのですが、この2つは、QOLの指標について、私が批判している「物理的QOL」と「心理的(主観的)QOL」のようなものであって(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/qol.pdf)、
生徒ひとりひとりに対しての具体的支援がどのように反映してきたのか、というエビデンスに対する評価が乏しいのです。これが「個別の支援計画」の本筋であることはこれまで繰り返し書いてきたとおりです。生徒ひとりひとりの成果は出てますよ、というかも知れませんが、現在のところ、それは「通信簿」です。そして、本来、支援と成果の関係が書かれているはずの「個別の支援計画」は、ともすると、もうひとつの通信簿といった程度にしか(先生にも保護者にも)認識されていないので、余計な負担となってしまうわけです。

 ばくっとした「満足度」を念頭においていたのでは、これは「サービスへの評価」ではなく、保護者への直接的なホスピタリティ(この場合は、「ご機嫌伺い」)が重視されることになってしまいます。まさに「鉄腕アトムに櫛」状況が現出することになり、ペアレントのモンスター要求行動を行動形成してしまいかねません(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/thinkabout.html)。
教育にせよ、福祉にせよ、看護にせよ、その「サービスの過程」を保護者にも社会にも説明・情報公開していくこと、そして、どのようにしたらわかりやすく「表現」できるのかを検討することが、今、当事者にも対人援助者にも「キャリア・アップ」をもたらすうえで重要だと考えます。





 写真は、「せせりとせろりのチキンライス」
1)オリーブオイルでにんにくをいためる
2)そこに鶏のせせりを入れる
3)玉葱もいためる
4)ピーマンも入れる
5)白米と玄米のハーフを入れる(今回、白米が底をついたのでこうなった)
4)ソースは、ケチャップ、トマトソース(なんかチュープに入ったやつ)、そしてウスターソースを、白ワイン(というか古かったのでビネガーか)でのばしたものを作っておいて、以上をまぜる。
5)最後に、セロリの千切り(実際は百切りくらいにしか切れなかった)をトッピング。

 週刊誌(ポスト)に載っていた「アクアヴィータ」というところの、ナポリタンレシピを、せせりチキンライスに転用したものです(転用もQOL第三段階です。)重要なのは、塩と黒胡椒。塩は、食卓塩じゃなくて、天然海水塩、黒胡椒は、けっこう思い切りいれる。チキンライスの味と、トッピングのセロリ千切りの相性は抜群です(アクアヴイータさん、すごい)。今まで食したチキンライスの中で、一番おいしかったんじゃなかろうか、と。空腹だっただけかも知れませんが。