卒論研究の諸君

marumo552008-09-03

 行動分析系、あるいは対人援助系の実践を卒論としていまがんばっている諸君へ。
卒論ジョブコーチのSさん、毎日、JC作業のあとのデータ処理と翌日の準備ごくろうさま。毎日データを表記し、それをみて翌日に備えることは重要なことですから、今はつらくてもがんばってください。データをみる→工夫する→実践をする→データをみる→工夫する の繰り返しから、対象者のキャリアアップと実践者であるあなたのキャリアアップが同時に生まれるのですから。そしてそれが同時に生まれてこその「実践研究」なんです。
 
 大学院進学内定者の君あるいは修論作成中の諸君。テーマは何であれ、君らもそのことを肝に銘じてください。データ起こしを溜めるのは論外です。またその時点時点での総括をせずに他の人にもわかる「表現」活動を引き延ばすのも論外です。実践してから、数ヶ月後になってまとめてやっと先方に発表するというのでは、すでに実践でも研究ではありません。たえず当該のフィールドにまつわる理解について表現し、最前線にいなければいけません。仮に同じ条件が繰り返される時期においても、毎日、その実践研究の「要約」を実際に書き直す、という作業が、自分のキャリアアップ(あるいは停滞あるいは後退)を可視化することになります。学部でも大学院でも、ゼミの発表のさいに、かならず、初めて聞く人にもわかるように最初に総括を語れというのはそういう意味でもあるのです。「先生はもう知っているでしょ」という態度で、それらを省略して発表するのは、ゼミであれ面談であれ、ひどく稚拙な発表態度です。自分で、どのような文脈のもとで、自らの実践・研究行動が行われているかについて表現できなければ、ちっとも研究は面白くないでしょう。


 実践してから数ヶ月もたってしまえば、もう対象者の行動を、諸君のデータをもとにキャリアアップすることはできません。それはすでに「研究のための研究(のまねごと)」あるいは「後ろ向き」の研究(のまねごと)であって、相手のキャリアアップとは無関係に自分の論文だけを仕上げればいいや、という態度です。それは「研究倫理」からもっともはずれるものです。データに表現する、そしてそれによって総括するというのは、たえず、その時点から、次に何をするかの判断のためにあるのです。授業でも再三述べてきたように、行動とは危うい脆いものです。ですから、

     データは生ものです。

 「個別の包括支援プラン」の書き換え作業を、くりかえし学校の先生にお願いしているのに、データをとってすぐに考えるということができる学生諸君がそれをさぼっていては話しになりません。実践・研究が「正の強化」で維持されなくなります。それではキャリアダウンでしょ。




 図は、昔なつかしいタバコの広告。当時は、たばこ吸うからガンになったりしてなかった時代なんですな。わたくしの父親もタバコをすってました。別に煙いとも思わなかった。「おとなが一生懸命に働いていること」のひとつの象徴だったように思います。    
 http://www.jti.co.jp/Culture/museum/gallery/poster/poster_5_08.html