実践から表現までの許容時間

marumo552008-09-04

 「データは生ものである」と昨日の日記に書きましたが、実験デザインが周到に用意され、またそれを許すような実験実施状況があるとき(つまりは超構造化された実験室状況が用意されているとき)、つい結果の集約や表現は後回しでもいいやと錯覚することがあります。
 それは、言葉を換えれば「一般的法則をみつけるための」仮説検証型の実験の場合、あるいは「研究者」が、目の前の対象者の直接の利益(キャリアアップ)をはかるよりも、対象者の属性としての不動の「実体」としての行動を、第三者的に記述することが自らの役割として任じている場合でしょう。

 「二人称の科学」としての対人援助学においては、そこにいるA君に対して、われわれは紛れもなくその行動を左右する(というかその行動の構成要素としての)環境の一部であり、A君とわれわれ(そしてその他の環境)のあいだのバランスの中にあらわれる行動というものは、きわめて脆くはかない「状態」にすぎません。その状態を表現できる賞味期限など、ほんのわずかなものです。

 実践の科学としての対人援助学、あるいは応用行動分析の特徴は何かと問われた場合、それは「実践」と「表現」に遅滞のないことである、と言えるかもしれません。実践から表現までの時間が長ければ長いほど、それは応用行動分析からははずれるもの、と言えるかもしれません。それが許される科学をなんと呼んだらいいかはわかりませんが。
 

 今日から、筑波大学の藤原義博先生の「特別支援教育」の集中講義が始まりましたね。受講生は30人ほどである、と。ぼくの普段の大学院の授業の3倍、このあいだの某大学での集中講義の15〜20倍の受講生だな。ちぇ。
 ま、それはともかく、久しぶりに藤原よっちゃん義博先生と、四条大宮の千龍でご飯を食べました。いつも体のどこかに痛いところのある藤原先生ですが、「ぼくら行動分析を超えてどこへ行くか?」といった話などで盛り上がってました。明日も飲もうねえ。