対人援助学会の構想(1)

marumo552008-09-06

 来年から、対人援助学会を発足の予定なんですが、発起人名簿みたいなものを作って、ネットワークを構築したいと思っています。
 対人援助学会の発足は、それ自体をひとつの実践研究として今年度、立命館内のあるファンドの支援を受けることになりました。今年は、応用人間科学研究科のOBがやっている会社にHPの作成も依頼し現在コンテンツを作成中です。

 現在、準備については、立命館大学の学内で数名のメンバーを中心に行っていますが、全国版とするために、コンセプトを先に社会に提起し、京都以外の方々にも幹部的な役割を担ってもらう必要があります。

 「対人援助学」は、主に職業的立場性をもって直接的な対人援助行為をおこなうすべての人が、簡単にいえば職種を超えて「連携・融合」することで、その機能を最大限にしていこうという実践的目的を持つものです。
 その「連携・融合」で重要なことはやはり「表現」です。対人援助「学」という、「学」という用語は、ここでは「表現」を行うことの宣言でもあり、またその表現方法に関して相互のコンセンサスを持つ人間が集まるという風に考えてもいいと思います。ただし「学」といっても、既存の(認識の科学としての)学問領域に、またぞろ新しいものを横並びに付け加えるというものではありません。
 「二人称」としての対人援助行為は、その「表現」によってはじめて実践が可能であり、また連携すること(ひとりで抱えないこと)によって、医学モデルやマクロな社会モデルとは異なる「二人称としての科学」が必然となる、ということを痛感している人たちの「出会いと協働の場」を目指すものです。


 「対人援助学会」の参加は、既存の学範(ディシプリン)に属することと相容れないものではなく、あくまでリアルな現実社会における諸課題を解決する「プロジェクト」に参加するようなものでありたいと思います。徒党のための徒党を組むようなかたちにはしたくないわけです。もちろん、対人援助をめぐっては、行政や制度の変更を要請しなければならないような状況というのはあります。そのためには個人ではなく学会といった集団によってそれを行うほうが力を持つ場合も確かにあります。しかし数の力を背景にしたロビー活動によって援護活動を行う、というのは、これまでも良く言われてきたように、「そんなことは金バッチが動けばいい」というノリと変わるところがありません。

 ロビー活動が得意な集団がある案件で活躍して、そのまま徒党を組んだままなんでも手を出す、というのは、ある時代には有効な批判集団として機能したかもしれませんが、いまでは逆に、多くの場合に、あるべき支援活動の脚をひっぱるというのは、この数年間に、なんども実践活動の中で体験させられてきたことです。「対人援助」という用語自体が「上から目線である」というコメントも、元吉本興業の人にも言われましたが、それは、これまでのそんな経緯とそれに対する社会的反発でもあったと思われます。

 
 新聞みてたら、ミラ・ショーンが亡くなったそうですね。ミラ・ショーンって、デザイナーの固有名詞だとは実は今まで知らなかった。ショーンって、ドイツ語の「美しい」っていう単語であり、ミラは何か地方の名前とかで、そういう経緯のブランド名だと思ってました。BMWみたいな。
 写真は、わたくしの唯一のミラ・ショーン。師匠のS先生が昔よくミラ・ショーンのネクタイ(濃紺色のフチドリが、かっこよくてオシャレであれがほしかった)をしていたのでマネして、10年近く前、なんかの「自分にご褒美」で買いに行ったんですが、そのとき店員さんと、延々と「こちらのコンセプト提示」と「店員さんの商品選択提示」の勝負になっちゃって、あげくにに、メチャ高いやつを買わされちゃったものです。気づいたら、肝心な「濃紺のふちどり」がないじゃん!!(そのかわり裏地が全部濃紺でリバーシブルですって言われてつい裏が紺だからいいって思ってしまったのか? わざわざ濃紺の方を出して使うなんてあるわけない。
 論理的に必要な要件を足したり引いたりしても、満足できる対象になるとは限らないという痛恨の事例ネクタイです。理屈っぽい人ほど実は詐欺にだませれやすいという一例か? ふだんは全くその逆の行動パターンなのに。このネクタイしているときは、身につけている他のすべてのものの合計金額(靴さえ入れて)より、ネクタイの値段が高いということがよくあります(他のものが安物すぎるのか!!)。 もちろん最近は「清貧生活」ですからネクタイさえしません。