ターボさんからのコメント

marumo552008-09-18

9月5日の記事にターボさんからのコメントをいただきましたので、ここでその内容とわたくしのコメントを載せますね。


藤原先生という方との交わされていた「です・ます」調の話題は面白く読ませていただきました。私は良く分かっていないのですが、これは<誰を対象に話をするのか>ということが、話の根幹になるんでしょうか。私は常日頃、応用系と基礎系の人間の違いは実地的・学究的という地盤の差によるのではないかとイメージしてきました。


 研究や実践を「やる人間」のタイプとしては、上記の分類でもいいんじゃないかと思います。


その上で望月センセのご見解を拝読したわけですが、仰るようにやはり表現が話し言葉であるかどうか以上のというか、もっとコミュニケーションの基底としての「伝わりやすい表現機能」ということを意識しないわけにはいかないように思います。

確かに、それはそうだと思います。

 AのことをAと相手に正確に伝わるのは、それなりの表現手続き・技法があるから成立せしめるのであって、時に聴く相手によっては解釈が変容する可能性があることは考慮しなければなりません。AはAであってA以外ではないということを伝えて環境に作用させること、環境の変化に対応する行動選択もまた同様の手続きで行うこと、その連続性が対人援助学の文脈でいうところの「援助−援護−教授」の連環に位置づけられるのだろうかと思うわけです。


 そうですね。たとえば、援助、援護、教授という分類も、表現方法のひとつです。これは、対人援助の活動を行う主体(対人援助者)が、誰を相手にどんな事をするか、という機能を中心にした表現です。
 援助は、対人援助者が、物理的環境や人的な環境を整えることです。物理的環境を買えたり、人的環境を整えたりです。(後者の場合、当然、「援護」も含まれてくることもあります)
 援護は、これはもろに言語行動で、上記のことを恒久的に環境に設定するために、関係者に「おねがします」とお願いするわけです。(です、ますになるよね)
 教授は、当事者がその時点での環境設定に対して行動が成立するように、身体的あるいは言語的に教授活動をするわけで、その行動の成立を当事者が求めている場合は、先生と生徒、コーチと選手みたいな感じですが、それでも、昔とは違って命令すんじゃないうくて、こうしてみましょう、とかという調子(です、ますでしょうね)。
 まさに、対人援助というのは、誰かに援助者が対応することそのものです。ですから、それはもちろん理解してくれるために正確には伝えなくてはいけないんですけど、やっぱり「である」調ではないよね。つまり絶えず語りが「二人称」の関係の世界なんですよ。その社会関係における機能の性質から。これに対して、認識の科学、つまり、ある世界の出来事(人間の行動も入ります)を第三者的に記述することをなりわいにする人もいるわけで、人間の職業タイプとしてはまさに「学究派」ですよね。この場合、実は、そこで表現される内容というのは、自然の摂理や論理的原則ですから、「それはAとBはこういう関係にある」ということを、目の前の誰かを直接動かすわけではなく、たとえば本や論文にかいて、実際にだれがそれを読むかについては必ずしも具体的に想定していませよんね。岩に彫りつけちゃってもよかったりして。
 ここのターボさんの表現にある、「AはAであって、A以外のものではない」というかなり建固な「事実」を、研究者どおして確認するためだったら、「です」「ます」というようなあいまいな意見表明ではなく「AはAである」のほうが明確に表現できますよね。

そして、この連関状態を持続させるのが一般生活レベルでの対話の継続ということも同義と理解することが出来、その意味からしてこのコミュニケーションは誰を聞き手にしても基本的なことが伝わるということが必要になるのだと思っています。

「AはAであってA以外ではない」という事実のありよう、あるいはそのような事実の表現が行われる状況というのは、対象は物理的生物的な実在として、疑う余地もなくそれは誰から見てもAと命名できるものである、というかなり素朴な意味でも唯物論的な姿勢だとおもうわけです。そういう立場ではAは、Bであるという表現のありかた対しては排他的な姿勢となるなんじゃないですか?

 現実の社会的関係の中で、「AはAであってA以外のものではない」という事実を考えるうえで、たとえば、白いお皿(A)があったとして、それを、まだ配膳がなされいないために白いといたら、それは「料理はまだ」という命名も可能になります。一方、皿洗いという文脈でいえば、白い皿は、食器洗いについては「おわり」」という風に、表現されるわけで、Aは必ずしも同一の命名として、A(皿)=まだ、でも、A(皿)=おわり、という風に必ずしも1対1ではないわけです。
 白いお皿を10歳の知的障害のある個人におきかえて、その記述としてA=Aとはならない無数の=が成り立つのと同様です。つまり文脈ということが問題になるわけです。
 行動分析学は、まさに文脈主義の上になりたつもので、「A=AであってA以外ではない」ということが、どんな場面でも絶対そうである、という表現はできません。それをやっちゃうと宗教になっちゃうと思うわけです。
 対象に対するゆるぎない命名(分類)こそが、科学的なものであるというのは、一種の素朴な唯物論です。発達というものはこうだ、という風な表現を行う場合も同様です。
 ターボさんが、ちょっと日本福祉大学でキャリアアップしてきて、もし、そういう意味での命名の絶対性のほうに寄りそったならば、基礎研究と応用研究の差というものは、基礎は、「AはゆるぎなくAだ」ということをどこまで確かめることが研究で、応用とは、そうした不動の原則の、ゆるい日常でのあてはめ、という位置づけになっているかなと危惧したわけです。
 どっちが科学的も基礎的でもなく、それぞれは「誰に向けての」表現あるいは言語行動なのか、という観点から、むしろ同等のものと考えるのが、行動分析学的な意味での基礎と応用です。どっちも実験して因果関係をたどるという作業そのものは同じだと思うんですけどね。

うーん、私の話はちゃんと伝わっているんだろうか・・・