個別の支援プログラム(IEP)とPDCA

marumo552008-10-05

 前回の日記に、takatate先生の進捗状況のご報告がありましたので改めてご紹介した上で、簡単リプライ。この問題は、あらゆる対人援助作業に関わる問題ですから、教員志望の人だけでなく、バリフリ心理の受講生諸君はもちろん、就労支援ほか応用行動分析に関心のある人はみてコメントください。
 なお、左図は、個別支援計画におけるPDCAサイクルに関して、ひとつのモデルを示したものです。この図は、PPファイルで(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/PDCA.ppt)HPに貼ってありますので適宜、「白地図」代わりに使ってください。

以下takatate先生からのコメント(青文字)

 以前にお話しした、うちの学校のIEPの進捗状況です。
今年度は、PDCAサイクルでいうところのPをやっていこうというのがうちの学校のコンセプトです。私は小学部の担任で、昨年に支援目標を設定するための保護者向けの児童のできること(できないこと)チェックリストを作成しました。それで、その様式を高等部まで(就労させるところまで)拡大しようというのが今年度の本校のIEPの検討委員会の状況です。

 小学校からIEPの情報を継続的に積んでいくお話ですね。「できることチェックリスト」はいいですね。( )つきの「できないこと」がちょっと気になりますが。

 しかし、私的には、先生の講演やブログとHPの資料から、既にPには興味がなく(前にもコメントしましたが、長期目標先にありきは、むしろ邪魔)、CやAの部分を共有する情報のやり取りが重要と思い込んでいるため、無理矢理行動分析学会での講演や先生のブログで感じていることを主張させていただきました。すると、なんと結構すんなりと受け入れていただけました。

 それは良かったですね。どういう表現(「援護」活動)をしたら、他の先生が受け入れてくださったのか、全国の先生が聞きたいと思いますよ。


 でも、×(できない)からスタートではなく、現状の「できる」を積み上げていくことの意義はみなさん同意してはくれるのですが、なかなか○(できる!)からスタートのものにならないのが現状です。どうしてもアセスメントレベルでは「できる」の裏返しに「できない」ことが見え隠れしてしまいます。
以前、PDCAサイクルの順番を入れ替えてDかCかAからはじまる(いいかげんですみません)方法を唱えているどこかの学校の主張を見たことはあったので、まず、ちょっと実践してみて子どものできること(ベースライン)を把握してそこから目標を立てるようなシステムはできないかと提案してみましたが、却下されました。まあ、それでも、アセスメントのためのチェックリストの基準に「できない」という文言がなくなっただけでも進歩ではあるのですが・・・。

 D、C、Aで始まり、Pは後でよいか、という方針は、目標設定の内容あるいはその妥当性にからむものですよね。長期プラン−短期プラン−実行プランという3つの段階で考えると、まずその前に「アセスメントと生徒の希望(京都では三者の希望)」の部分がありますが、この最初のアセスメントがごく短期間のうちに行われているとすれば、あるいはその時点で以前のIEP(情報)がない段階であれば、それに基づく長期計画は、ほとんど、出来合いのテストと当事者の希望だけに基づくことになりますよね。それはあくまで暫定的なものでしょう。ただ「生徒の希望」だけは常に心にとどめておく必要はあると思います。
 
 充分なアセスメントができれば、そこで「いまできる」を発見する作業とすることができますから、実質的にはDとCをしていることにもなりますね。ただ、Pの意味をあえて考えると、まずPを置くことによって、のちのDCAによって、過去のP(最初のもの)と今のPを比較することができるわけで、そこで「○から×」な変化は、支援行動の強化にもつながる可能性があるかも知れません。
 目標というのはあくまで常に暫定的なものです。「できる」の発見は、待っているだけじゃだめなんで、なんらかの手立て(援助)が優先されるつもりでないとアカンと思うのです。「なんのための」手立てかというのはやはり決めておかないと後の質問にもあるように、なんか理念的なものにしかとらえられない可能性が出てきます。でも目標はあくまでも暫定的だということを確認しておく必要はあると思います。

 しかし確かにこの図を描いてみると、PDCAという表現自体も気をつけないといけないなと感じました。企業などの長期プランは比較的固定的なもの(収益の目標など)で、その固定的な目標をなんとか実現するためにDを変更するという方針であれば、その方式を教育にあてはめれば、「同化−統合」的なトップダウン教育になりかねませんね。
 現在の学校の実情を考えると、なぜか毎年、「今年の本校の方針」みたいなものがあって、(実際その実現のチェックもしているかというと疑問ですが)まさに企業の生産目標みたいなものがムード的に機能し、それにあわせた長期目標などが、個別の生徒とは無関係にまず置かれてしまいかねないと思うこともあります。

 図にある赤い矢印は、トップダウンで具体的行動目標の細目をこなしていくのではなく、「できる」を発見するだけでなく、そういう支援を実現して(援助つきでOKです。もちろん)、短期プランにあたらしい「できる」状況を加えていくボトムアップな方向性を示しています。短期プランが変われば、当然長期プランも変化するでしょう。いわゆる上方修正ですね。こういう赤い線の方向性について、周囲を含めて「表現ができた」ということが、その生徒のキャリアアップと呼べるものだと思います。もちろん「できる」状態を様々な支援ツールなどの援助設定や上手な教え方の開発で可能にしたというのは、先生のキャリアアップでもあるわけですよね。この先生のキャリアアップと、そこでそれが可能になったプロセスも、個人的技や勘ではなくて、他の先生や保護者にも情報移行できたらいいですよね。なぜ、その「できる」が創造が出来たかということを表現することが「対人援助」の学になるわけですよね。


 とりあえず、学級レベルで子どもが「できる」ことの記録を支援者間で積み上げていける様式をファイリングしていける方法を実践していきたいと思います。ただ、その方法が効果的であるかどうかを実証するための記録はどうあればよいのか・・・。たとえば、保護者のコメントの量の増減や内容(質)を比較すればよいのか・・・。ご助言お願いいたします。

 「できる」記録をどのような形式で蓄積すればよいのか、またIEPが機能している、という状態をどのように客観的に評価できるのかという問題は、一見、形式的なようですがIEPの基本的問題だと思います。
 この場合、とりあえずファイリングの記載数(IEPの書き換え数)という単純な定量的な評価でよいのではと思っています。まずは当該の生徒の「できる」がどれだけ可視化されたかの数。それによって、その生徒の次なる「できる」場面を教室場面であれ家庭場面であれ、どう応用発展できるかのアイディアの数。
 複数の生徒についての上記の数については、すべての先生が簡単に閲覧できる形式であることが重要だと思います。さらに、言うまでもなく、「できるの発見の記述」「つぎなる場面への応用・発展のアイディアの発信行動」については、それらがなるべく即時的に具体的に強化されるシステムである必要があります。複数(対象となるすべての)生徒について、それぞれ上記の2つの定量的変化のグラフを張り出すくらいしてもよいのではないでしょうか。これは商社の社員の営業成績を壁にはるのは異なります。この数値には、先生の誰でもが関与しえるのですから。「あれ? A子ちゃんの『できる』の発見がこのごろ伸び悩んでるね」とか皆が気づいて、そんじゃひとつ、注意してアイディア出してみよう、とかいう感じになるといいんですけどね。「できる」記述行動を維持するためのひとつの確立操作といえると思います。


 あと、「できる」をお互いに積み上げていく方法は、人道的に大義名分がありそうなので、大半の方が賛同してくださいますが、多少思弁的に感じられ、具体的にどのように現場で行えばよいのか、学生ジョブコチーチの例だけでは、特に私のように小学部担当の人間には、エビデンスとしてどうしても利用しづらいところがあります。そのあたりもご助言いただきたくお願いいたします。

 「ご助言」ってほどのことにはなりませんが・・・・この問題は、前記した「できる」に関する目標設定(プラン)の必要性にも関わる話ではないかと思います。また、このエビデンスがとれるか? というのは、具体的に言えば、記録がとれるか、という話でもあると思います。
 これまで、わたくしめは「記録がとれないのは、時間や人手がないからではなく目標が具体的でないからである」てなことをえらそうに主張してきた経緯から申しますと、やっぱりここでも、実行プランには必ず目標が必要だということですね。
 
 「できる」は決して思弁的なものではありませんが、その生徒にとって「いま絶対これだ」という客観的なものもないと思います。
 よく引用しますが、Sidman,M.の I wonder what will happen if…. (こんなのやったらどうだろう。うふふ)というノリで良いと思うのですが。
 京都市では、経験の浅い先生のために「個別の包括支援プラン」には、「具体的実践のデータベース」が準備されているようです。ただ、ここがほんとうは一番、先生にとって創意を発揮する楽しい作業だと思うんですけどねえ。

 図の話、そしてこのブログの内容については、京都の先生たちにもご意見を聞いてみようと思います。