バリアフリー心理学:コミュニケーションペーパ

marumo552008-10-10

 10月10日のバリフリ心の、コミュニケーションペーパの内容をまとめました。その一部にコメントしてます。リンクしてあるものも、今一度確認してください。今回は、電動車椅子と手動車椅子体験という、わたくしの予習のいらない授業で楽をさせてもらいました。
 ま、基本は、電動車椅子の操作方法くらいは覚えておこう、手動車椅子を拡げたり収納するときに、指をはさまずにスムースに作業ができたほうが、恥をかかなくていいよ、くらいのノリで始めたのですが、予定外に、おもわず「自立と自律」を考える題材になりましたね。ノリの良い、今年の受講生諸君のおかげです。教師なんて、おだてれば何だってやっちゃう生き物ですから。


 1.当事者目線とそこからの環境状況への気づき:

●障害者の「気持ち」がわかった。
●自分もユーザになる可能性があるのかもしれないので、日頃からもっと気を配らなくてはいけない。
●乗ってみると傾斜に気づく。坂が怖い。
●視線が低いけど、これは確かにレジでの買い物に困る。
●以学館からバスプールまでの勾配は手動の車椅子ではきついぞ


 2.介助者としての気づき。

電動車いすの介助ってやはり少し不安
車いすの介助は意外と難しい。
車いすの「たたみ方」、介助の仕方くらい知っておいたらよいな。
●後ろで介助している人が、いざというときにコントロールできるだろうか。
●映画館の車椅子のシートは、スクリーンの端とか悪い席だ。


 3.当事者と介助者の関係への気づき

●授業で、押す側の人はすぐ「取っ手」を握ろうとした。「移動もしてないのに抑制体制に入ってる」。これは車いすの形状のせいでもある? 
●車椅子ユーザの目線は低いこともあり、レジでの支払い請求もつい介助者に向けられる。 


 4.自律と自立

  (1)キルスイッチがないと危ないが、でもそうすると結局、援助者による他律にならないか。
  (2)レジをしていて、車いすの人が積極的に話しかけてくれたのでスムースに対応できました。
  (3)校長先生の誤解は自律と自立の混乱でしょうか。
  (4)車椅子の暴走族がいてもいいのではないか。リスクを犯す権利もあるのではないか。 
  (5)リュウマチのおばちゃんの車いすを押すとき「ほんとにありがとう」と言われるがgivenな気持ちを味合わせてしまっていたのでは?


 5.その他

  (1)会社の人から「実は片目が見えてないんだ」といわれて、「全然気がつかなかった」といったがそれでよかったか?
  (2)バスに貼ってある「筆談で対応します」って、焦っているときどうなの?
  (3)重度の障害のある人も電動車いすに援助つきで乗れる、ということは、認知症の老人も介助者がいれば車の運転は可能でしょうか?
  (4)大学で目の不自由な人に道を聞かれて皆とまどっていた。異化・統合っていうのは聞けばその通りだと思うけど、実際には難しいと思った。



 今回は、「車いす」という「援助設定」(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/taijin2.pdf)を題材に、「自立」と「自律」の違い、givenとgetの概念の違いなどを、具体的事態を想定して考えてもらったつもりです(結果的にね)。みなさん、そのテーマによく応えてくれました。大変うれしいです。


 車いす体験の集約的部分の4.についてですが、
(1) のキルスイッチ(kill switch)ですが、確かに最後のところで他律になります。結果的に、溝や崖から落ちる、車にぶつかる、という状況は、QOLの範囲、つまり行動の選択肢を著しく低下、もしくは永久停止してしまう可能性があるからです。しかし、どのタイミングで援助者がストップするかは、確かにその援助者のその場での判断や「価値観」にゆだねられます。崖に落ちそう、というのではなく、アダルトビデオコーナーに行こうとするのをkillすることもあるかもしれない。
(2) レジで車いすの人が積極的に話しかけてくれたから、その人に向けて対応できた、というのは、車いすの人の積極性のおかげですが、お店としてもそのような積極的対応が出やすい環境設定をつくることが重要ですよね。
(3) 校長先生の役割として、「生徒の安全の確保」というのは至上的なものであることは仕方のない事です。また親御さんにしても、電動車いすなんて乗れるようになったらどこ行っちゃうかわからない、と心配する人もいます。事実、電動車いすの問題だけではなく、地域生活スキルとしての「バスに乗れる」行動を獲得したり、電車に乗るための切符を買う行動を教える、という内容は、どこへ行っちゃうかわからないからやめてください、というクレームが入ることがあります。
(4) 「車いすの暴走族」というのもあり、という風に発想することはなかなか良いのではないですか。ただ運転に関しては自立的自律もこの場合は必要でしょうね。「リスクを犯す権利」という考え方はノーマリゼーションの運動の中でもよく言われたことです。自己決定(=自律)の代表的テーマでもあります。
(5) おばさんが、姪っ子に「ほんとにありがとうね」みたいな感謝の言葉を言う場合は、あまりgivenとかgetとか気にしなくていいんじゃないですか? 姪っ子に「ありがとう」というおばさんには「ち、givenだ」といった不快感はないでしょう。っていうか、そういうことしてくれる姪っ子が可愛い、と思ってるんじゃないでしょうかね。世代を超えた援助行動を通じたコミュニケーションの発生については、理工学部の樋口先生と私の対談の記事(http://www.ritsumei.ac.jp/mng/al/report/pdf/230pdf/20_25.pdf)も参考にしてください。

 最後の5.の質問にリプライしておきます。正解っつうわけではないですよ。
(1) 実は片目が見えてないんだ、と言われた場合なんですけど、それは気がつかなくても当たり前ですから、へえ、全然気がつかなかった、で全然いいと思います。
(2) バスで筆談、ていうのは、なかなか物理的にも難しいですよねえ。とはいえ、バス会社さんも、今できることをしようという事でやろうとしたことですので、何もなかったころに較べれば、○(まる)ですよね。
(3) 走っている車は車いすの200倍の重さ、100倍のスピート、従って、気の遠くなるようなエネルギーを持っています。ですから、いったん事故となったら大変です。従って、認知症の方に運転してもらうのはやめたほうがいいと思います。ぼくの前のアパートのすぐ近くのサークルKは、高齢者の車が2度も突っ込んでます。
(4) せっかくのチャンスだったのにねえ。目の不自由な人に道を聞かれて、それがキャンパス内であれば、肩に手を載せてもらって目的地まで先導する、くらいのことをしてみてもよかったのに。いま、某M先生が視覚障害者用のキャンパスマップを実験的に制作中とのことですよ。



 写真は、1年くらいお世話になったマンション外の、パレット式駐車場の解体。冬になるとすぐ凍って緊急サービスを何度も呼んだのがなつかしい。
恐竜のような機械で、ばりばり鉄骨を食べていくんですねえ。