コミュニケーションのバリアフリ

marumo552008-10-18

 昨日(10/17)、「コミュニケーションのバリアフリー」という文脈の中で、携帯電話の使用のための支援方法(=対人援助:援助・援護・教授)の研究を紹介するにあたり、そもそも言語行動というものを行動分析学的はどのように扱ってきたかという話をしました。
 これまでの「ことば」を対象とする学問が、主に言語構造や個人の発達・能力との対応に注目してきたのに対して、行動分析学では、言語行動をほかのオペラントと同様に環境との相互作用としての行動としてとらえ、それは話し手と聞き手との間で、「今」持つ機能を中心に分析や支援の方法を考えることである、という趣旨の話をしました(しなかったかも知れません (^o^)v-~~~ )。
 
 トータルコミュニケーションというのは、そもそも「なんでもかんでも(=トータル)、どんな表現方法でもいいから、ろう者とコミュニケーションをとる」という理念であり、その当時は、口話一辺倒であった聾教育から、手話という「異化」を認めた上での方法として展開されたものです。

 昨日のブログ日記に挙げた、前期の「応用行動分析」講義のレジュメ(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/0808.ppthttp://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/0808.pdf )において、「なんでもかんでも」の表現方法を使うにしても、そこで大切なことは「それがどのように人を動かすことで強化されるか(表出)」「それによって、どのように動くかで強化されるか(理解)」という社会的な機能であることを強調しています。

 言語行動の形態と機能について付記すると、以下のような状況です。同じ、「みず」といっても、「これはなんだ?」とコップの中の内容物を問われて「水です」と応えている場合と、喉が渇いているときに「水をくれ!」という発言では、“mizu”という形態(topography)は同じでも全然違う機能をもったものです。つまり違う「行動」であるわけです。違う行動であるからには、その消長も異なります。英語の授業でwater pleaseとかいっても、先生は、必ずしも水をくれずに「いい発音ね」といったフィードバックがメインだったでしょ。

 また、逆に、形態は、口話、書字、手話、カード提示、という風に違っていても、「水をくれ」という同一の機能を持つ場合があります。どうして異なる場合があるかといえば、話し手や聞き手の持つ言語行動に関する行動的レパートリー(英語は話せないから身振りや書字で示す)や状況(暴風の中で声が届かないので手話で話す、など)によります。形態は違っていても、もし「聞き手」の受け入れ体制があれば、ある機能を持った言語行動として成立しうる(水をもらえる)わけです。
 
 先に挙げた、トータルコミュニケーションというのは、形態が違っていても、それを成立させる聞き手の体制があれば、それでもコミュニケーションが可能じゃないか、という主張でもあります。具体的には、口話で表現されたものだけを聞き入れる、のではなく、手話でも(周囲が勉強すれば)コミュニケーションが成立するじゃないか、ということです。
言語行動の中でも要求言語行動(行動分析学の専門用語としてマンド=mandといいます)というものは、当事者のQOLの拡大を自らが表現する大切な機能をもっています(言ってみれば、get(正の強化で維持される行動)の内容をget(周囲の要請する)するというものです。要求言語行動の場合は、周囲の人が、本人のmandによって、物や事を供給する必要があります。それゆえ、実は、そうそう簡単には聞き入れられない場合もあります。手不足の施設や、教育中心の学校では、「本人から周囲を動かす」という方向でのコミュニケーションの機能そのものが成立しにくいことがあるわけです(望月昭:「コミュニケーションを教えるとは」:小林重雄監修、山本淳一、加藤哲文編『応用行動分析学入門』学苑社、1997年. 第一章.これはまだ本屋さんで売っている本なのでリンクしてません)。
そういう状況ですから、うっかりすると表現方法の「異化」を理由に要求をシカトする、つまり本人の表現能力のなさ(多数派との違いなんですが)を理由に「ちゃんと言ってくれたら応えるのになあ」とか言って、後回しにしてしまう傾向があるのです。


 実践障害児教育に連載した「コミュニケーション指導再考」を読めば、応用行動分析の授業をとってなかった人でも、こうした行動的状況を把握していただけると思いますので、是非、一読ください(http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/14-Mochizuki(1998-1999).pdf


 「バリアフリー」、あるいは「トータルコミュニケーション」の発想は、「異なる反応形態」でも当事者の行動(get)が成立する状況(環境設定)を創ってしまうというところにあります。
そこで携帯電話なんですが、今やほとんど誰でも持っているこの「マシン」で、異なる反応形態を持つ者どおしでもコミュニケーションを可能にする「トータルコミュニケーションマシン」あるいは「コミュニケーションバリアフリーの援助設定」としての意味を積極的に見いだせないか、というのがこれから授業でご紹介していく内容であるわけです。

 ただし、ここでひとつ慎重に考える必要があるのは、上記したように言語行動は「機能」を中心に考える必要があるとはいえ、それぞれの持つ「形態」というものも、それ自体が、固有の機能を持っている可能性があるということです。 
 そこで、事例的研究として、まず「携帯電話」の持つ様々なモード(口話・メイル、写メール、テレビ電話)は、他の機器とも比較しながら、どんな固有な言語的機能を持ちうるかということをまず洗い出す作業をしてみよう、というのが、昨日から始めた授業の中身であるわけです。


 授業レジュメその(3)をパワポとpdfでアップしました。
http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/08BF3.ppt
http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/08BF3.pdf