バリアフリー心理学:試験講評(その1)

marumo552009-02-06

 やっとこさ、「バリアフリーのための心理学」の採点132人分おわりました。途中まで、どの問題を選択したか分布表を作っていたのですが途中で飽きてやめました。ま、案外、皆さんまんべんなく選択されてましたね。

 一緒に試験監督した先生から、前半問題については授業に出てなくても常識で書けるんじゃん、という「嫌味」を言われました。確かに答案ほとんど書けずに不合格だった人は1名のみです。ということは、書いてさえあれば合格点(C)か、というとそうでもなくて、大量に書いてあっても、一目瞭然、授業に出ず(ブログも見てない)に「常識」で挑戦した人の場合、その「常識」内容が、この授業の趣旨とかけ離れている場合にも不合格という人も1名いました。授業に出ずとも、この授業で再三話した「バリアフリーのありかた」と一致した回答の場合には、評価を受けています。

今回は、問題1と問題2の講評

 1. 車椅子とスロープのような「援助設定」がバリアを低減した、という指標はどのようにとればいいか、という問題は、簡単に言えば、当該の援助設定によって実際に当事者が外出する頻度が高まったか(反応率)という指標について答えるのが正解です。スロープをつけて、物理的な可能性のみでなく心理的バリアとか「本人が外出したいか」が重要という回答もありましたが、その「指標」を具体的に問う問題ですので、外出する頻度と書いてもらうことが重要です。

 2. 携帯電話の学校に持ち込み禁止について、
1)学校に持ち込ませないことのメリットは何か、について、みなさん、あれこれ頭を絞って考えてくれたようです。携帯電話にまつわるさまざまなトラブルが「少なくとも学校内では起きない」というメリットを挙げた人が多かったですね。
 面白いのは、学校で携帯がないことによって、「生徒の集中力が養われる」という意見がありましたが、養われません(笑)。機会がないんだから。着信音などで授業の迷惑になるが、それがなくなる? 学校外ではコンサートや大事な場面では、あらかじめ電源を切っておくといったマナーも普段からしてないとつい忘れてしまいます。また、それを忘れないように自分をマネジメントするということこそ「集中力」を養うということでもあり、持込が禁止された携帯電話では、そういうマナーも身につける機会も減少しまいます。
 簡単にいえば、学校に携帯を持ち込ませないことによって、生徒が何かを学習することはできません。それが正解です。学校側の責任放棄という回答もその意味で正解です。学校の役割のひとつは、携帯にかかわらず社会人として望まれる行動を教育(リテラシー)することでありそれを放棄する方法は職務怠慢です。
2)全学禁煙と携帯持込禁止との共通する問題という問いには、いぜれも組織の中でのみ当該行動をしないようにさせる組織内禁止という「撲滅対策」をとっている、携帯電話にせよタバコにせよ、監視下で行動禁止のシステムをとる抑制的(負の強化による)な行動管理は、あくまでも一時的であり、嫌悪刺激の提示者がいなければ、すぐに復活します。つまりは、目的と方法の不一致という意味での回答が目立ちました。それ正解です。しかし、それは方法の問題であって、もっとも重要な問題はそれらの行為を「禁止」することそのものの意味です。

 ここで、書いてもらいたかったことは、まずは上記のように、(喫煙であれば)18歳以上の組織員において、限定環境の中での「恣意的な禁止作業」には無理があり、さらにいえば、それを嗜好する利用者や当事者はたとえそれが少数であっても(また「健康に悪い」という「科学的根拠」があったにせよ)、禁止の提案を承認させる理由はないということです。「あなたの(健康の)ために」とか言うフレーズは、CMでも揶揄っぽく流されていますよね。バリアフリーで繰り返し、健常者の論理を障害者へ押し付けるな、という論理と重なる部分です。

 禁煙については、健康増進法などという奇怪な法律であれ、組織としての責任を果たし法令へのコンプライアンスとして「学内方針」を打ち出して社会にみせなければならない立場にいる学校(関係者)にとっては無理からぬことではあります。だったら、大学はそれだけを根拠に全学禁止にすればよいのです。そこに「あなたの健康のためよ」みたいな余計なお世話な論理をつける必要はない。まじめにそれをいうなら授業料安くする、とか、普段から学生(と教職員)の健康を増進するための設備を作れという話です。

 携帯にせよ喫煙にせよ、方法の問題としても、自分の管理内の場ではトラブルを起こさせないという態度は、「研究倫理規則」の整備や運用の具体的方法と同様に、大学の力量や品格を示すものだと考えます。