電動車いすによるスキルアップとキャリアアップ

marumo552009-02-08

 写真はYAMAHA電動車椅子で定価が4〜50万するものです。昨年、N総合支援学校の重度の障害のある生徒を対象に、電動車椅子の運転のマニュアルを作るという研究を学生がして卒業論文になりました(http://d.hatena.ne.jp/marumo55/20071220)。
 
 電動車椅子を、「下肢の障害性ゆえに『歩けない』というマイナスな状況、さらには腕の力もなく自分で漕ぐことができない人が、そこから『一人で人並みに移動できる』ための援助設定と捉える発想があります。いわば狭義のリハビリテーションの中での道具としてみる見方です。一方、この電動車いすを、自由に自分の好きな所へ行くための道具、あるいはバイクや自動車のような動力のついた、操ること自体が楽しい「乗り物」という捉え方もあると思います。
 「キャリア・アップ」という概念を考える上で、上記の電動車椅子に対する2つの捉え方の違いが参考になると思います。キャリア・アップは、当事者が「楽しくやれる」「やり続けたい(継続を自らが望む)」という事態を実現することが不可欠です。このような事態を昔から「自発的」とか「自律」と表現する場合もありました。狭義のリハビリテーションにおける目標としての「自立」(単独でできる)と、このキャリアアップでいう「自律」(好きなことができる)では、具体的な援助のありかたも変わってくる可能性があります。そこで必要な支援ツールのありかたも変わるでしょう。この自立と自律を区別をしておかないと、キャリア・アップの可能性もつぶしてしまう場合があります。またハビリとしての「自立」への作業さえも阻害してしまうことがあります。

 さて、昨年、学生が重複の障害のある生徒に、電動車椅子の「運転(自律)」を教えたことについて、所属の校長学から異論が出たことがあります。それは、知的に障害のある生徒が、好きなところに自分で行けるなんて危険きわまりないという意見です。これは、「自立」と「自律」の内容あるいはそれぞれを支援する方法についての混乱です。校長先生は、重い知的障害がある子どもが、誰もみていない場所で、電動車いすを使ってどんどんどっか行ってしまって溝に落ちるといった図を想像したんでしょう。そりゃ確かにあぶないです。しかし、自律的に楽しく電動車椅子をライディングすることは、必ずしも、単独つまり自立的に行う必要は必ずしもありません。注意深く見ている支援者がいてもいいのです。見る人は、本当に危ない方向へ間違って行くとき以外は、方向を勝手に決めてしまったりはしません。あくまで支援者は安全スイッチのようなものです。
 とはいいながら、そこでは、少し離れたところで、当事者が運転してずんずん溝に向かって走っていく電動車いすを、支援者が急に止めたりできるか、という技術的問題が浮かびます。それは、電動車いすに「キル・スイッチ」をつけておいて、そこからひいたワイヤの先を援助者の腕に巻いておけば、いざとなったら支援者はそれを思い切りひいて(スイッチを抜いて)緊急ストップをかければよいわけです。もちろん、この瞬間に当事者の自律はくずれます。その意味では、瞬間、先にあげたキャリアアップの用件である「自分で楽しくやれる」行動は中断することになります。

 しかし、図にある車椅子の後ろのハンドルは、当初より、他者がコントロールすることを前提につくられています。あのような形をしていれば、近くにいる支援者は、ついこのハンドルに両手をかけることになります。その結果、意識していなくても、支援者が一定の方向性へ誘導する可能性が増えてきてしまいます。バリフリ心理学の授業中、お互いに電動車いすの利用者と介助の体験をしたとき、あとの感想で、「車椅子の後ろにまわると、ついこのハンドルに手をかけてしまい、自分でいける利用者の場合でも方向を押し付けてしまいそうだ」というコメントが出ていましたよね。もちろん、最初からハンドルのない、完全の自律型のモデルもあります。そういうモデルにではまったく支援者が危機管理をする必要のないレベルの当事者のためのものでしょう。

 一方、まだ乗り始めの、しかも知的障害がゆえに遠出も外出も経験が少ない人がこれを利用する場合には、やはり、一定に安全装置が必要です。それは、移動における方向やスピードなどはほぼ100%自分(自律)で楽しむにしても、そのことは必ずしも単独(自立)でできなければいけないということを意味するものではありません。付き添いがあって、でも、自分の好きな場所に自由に出かけたり、運転を楽しむということは可能なのです。

 車椅子に限らず、自律と自立の混乱があるために、安全な他者管理からいきなり危険な単独行動という図式にとび、そのどちらかしかない、と思っている人には、「知的障害のある生徒が好き勝手に電動車いすで遊ぶ」などという発想は打ち出しにくいものとなってしまうことが予想されます。「援助つきで自律する」ことも可能なのです。そしてその「援助つきの自律行動」をどう実現していくかが、現代の対人援助の最大のテーマです。
 「援助つき就労」という言葉が、今も新鮮であるように、「道具や機械そして人間をも支援に使って仕事をする」という形が現在、障害のある個人においても、先送りすることなく、いま、社会参加するために必要な要件であり、そのことを過不足なく設定することが対人援助学の共有すべきミッションなのです。一人でできるように訓練ができたら社会参加、という順番(教授→援助→援護)ではなく、インクルージョンの時代に求められる支援のありかたは、物理的・人的援助による「自律的」行動の実現(援助)→定着(援護)→その上での自律的(ときに自立的な)行動の拡大にむけた練習(教授)、という順番を想定することが大切なのです。

 「援助つき自律的な電動車いすの運転」の場合には、「キルスイッチ」という装置が、リハビリではなくキャリアアップのための援助設定(支援員ツール)ということになります。そこで、電動車いすの元売であるYAMAHAのHPをみて電動車いすの販売店に電話して、「キル・スイッチを装着してくれませんか」とたずねたのです。ところが「キル・スイッチってなんですか」から始まり、こちらが意図しているところを縷々説明したんですけど、まったくもって理解の外。おたくのHPの車椅子のコーナーのすぐ脇にジェットスキーも紹介してあるじゃないか、と、くいさがったのですが、私どもは車椅子専門の販売をしておりまして、そっちのほうはぜんぜんわかりません。それに、「あぶないですから、絶対にそのような改良はしないでください」ときたもんだ。「これはビジネスチャンスかもですよ」とか言っても、ぜんぜん、何のことやらわかろうとはしてくれませんでした。YAMAHAは福祉機器とレジャー機器の双方を、同じHP上に隣り合わせで売っているが、電動車いすがレジャー(その操作を自律的に楽しむ)機器として捉えるなんてことは、微塵も発想できないわけです。ジェットスキー担当者が、福祉機器の担当になるといった異動もあればいいのに。
 
 「連携と融合」が必要です。教育と福祉と医療の連携なんてのでは不足です。「遊びをせむとや生まれけむ」の人生観を持った人が福祉や教育をやってないと、援助機器ひとつ発想することもできないというエピソードでもあります。マックボタンやAACだけが援助機器ではないんですよ。

 というわけで、改めて、バイクライダーのS先生(実名出してしまおう。衣笠の杉本五十洋先生)のような人に、ぜひ対人援助学会に入ってもらいたいと、切実に願うものです。キルスイッチといえばすぐにわかる人です。あとは西総合のtypeRのT先生くらいか・・・・・