シネマの学ぶ人間と社会の現在:シリーズ1終わり

marumo552009-03-14

 人間科学研究所主催、京都シネマ共催、生存学後援の「シネマで学ぶ『人間と社会の現在』」第一シリーズ『家族の現在』が、本日の『茶の味』の上映をもちまして、このシリーズ完了しました。フィルムの手配、映画の選択、会の運営までもご協力いただきました京都のシネマ(神谷雅子代表:立命館大学教授)のスタッフのみなさま、設営やマネジメントの協力までしてくださった人間研の荒堀・野村さん、佐々木さん他、多くの院生のみなさん、ごくろうさめでした。何度も連続して足を運んでいただいたオーディエンスのみなさまもありがとうごあいました。

 今回の「茶の味」というテーマ、なんかよくわかりませんが、そういえば登場家族は、見ていると、しょっちゅうみんなでお茶を飲んでいる。みな、きままにそれぞれの自分の生活を大切にしているけどお茶はのむ。この行為に、「家族」というものの何か意味を象徴しているのでしょうか。
 一方、この家族の父親たる人は、「催眠術師」なのか「臨床心理士くずれ」なのかは定かでないけれど、白衣を着こんで「3つ数えるうちに・・・」なんて暗示をかけつつも、途中で外からかかった電話で会話しながら術を継続している。
 なにが映画の主題なのか? 私としては、あまりこの映画に「家族の絆」といったものではなく、甥っ子が親父に「もう一回、術をかけて」と迫って、全員、なんかちょっと何の目的だかろもわからないような”いかがわしい催眠術”を嬉々としてかけてもらってトリップしている。なんかこのお父さんは、性格温厚そうだけど、いちばんおかしな人かも知れない。

 末の娘の目には、ときどき「超デカイ自分自身」が自分を眺めているように「見えてしまう」。そして他の人の話を信じて「逆上がりが出来たらそのデガ顔が消える」と信じて、ひたすら鉄棒の練習をしている」
 甥である青年が、再度、催眠をリクエストして、家族の半分は参加するが、残りの半文は途中であきてテレビなんかみてる
 このあたりにも何か訴えたい部分があるのだろうか。普段まともた会話している家族はあっさり催眠みん術にかかるが、普段ちょっとトンダ話をしているような、はっちゃけ人間の人たちの方は、むしろ術があまり効かないのか、そもそも興味がなりのか、かからない。

 「かかりやすい人」は、この家の普通の登場人物で、「かからない人は」、むしろ主人公の息子などちょっと「変わっている人」が、催眠にかからない。で、催眠にかからず、むしろ他人より自分のことば(自分の常識)に誠実である人が、不思議もなく努力もせず、はっちゃけた人たちの方がという話が明白でなくなってきて、このあたりがこの映画の主題なんでしょうか。insane?といった言葉が思い出されます。