行動分析学と対人援助学(その2)赤文字訂正あり

marumo552009-05-25

 前回の「応用行動分析(第4回資料参照)」の授業コミュニケーションペーパーから、FAQ的な質問と感想、およびそれに対するコメントをいかに挙げます。

 1)“対人援助”というのは、集団でなく個人を対象にするという原則があるのでしょうか? 
 基本は個人です。ただし個別の個人に対する対人援助の、援助・援護・教授の連環作業を通じて、ある特定の属性(必ずしも生物学的・医学的な属性とは限らない)グループを対象に対応を考える場合もあります。それは「効率」の問題だと思います。そのことはもちろん大切ですが、それを必ずしも最優先に考えるべきものではないと思います。
5月25日の毎日新聞に「視覚障害者が駅ホームから転落した人数」に関するニュースがありました。そこでの対応(ゲートをつける等)は、視覚障害のある人というグループに対応したものといえるでしょう。


2)対人援助には信頼関係が大切か?
 まだ具体的な対人援助が始まるまえに、援助者が「まずは信頼してもらわないことには、援助が始まらない」というような表明をしたとしたら、なんか胡散臭いですよね。対人援助を実践した後で初めて「信頼関係」は生まれるものでしょう。


3)「これ」があれば「できる」の「これ」は先行刺激の事を指すのですか?
 「これ」とは援助設定をさすとすれば、必ずしも先行刺激とは限りません。援助設定には、ある時点での当事者の行動成立について、一般的な基準を緩めて強化を保障する、という場合もあると思います。いわゆる行動形成というのも、「今できる」行動を強化するということが特徴です。


4)対人援助学は応用行動分析の一分野という認識でいいのですか?
 とりあえずそうです。対人援助学=応用行動分析といってもいいかも知れません。応用行動分析は社会的に重要な課題を解決するためのものです。社会的課題といったら、誰かの行動の選択肢にかかわるといえるでしょう(いえるかな?)


5)援助→援護→教授は、わかったけど、その先はどうなるのか不明瞭じゃないの?
 ちょっとそうです(汗)。連環は、さらなる個人の行動選択肢の拡大に向けて進むものですが、当初の「行動成立」と次の「行動成立」のあいだにそもそも序列が存在するかと問われると・・・。


6)「きまぐれの援助ではなく、決まったときに限定しても確実な援助を」
 これがサービスというものの大切な要因だと思います。このへんは、田中康夫氏の震災時のことを書いた著書を読むとよくわかります(ぼくのHPの「最近考えること」の中の「デニーズへようこそ。お客さまの平均年収は?」の中に引用されています(と思います)。http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/thinkabout.html


7)「助ける」とは、当事者が主体的に「何かがしたい」という意見を持っているという前提で行われるということでしょうか。「何かがしたい」という欲求を生み出すことを教授の対象とするということはありえるのでしょうか。
 あると思います。かつて(って今から25年くらい前)、障害のある子どもや成人に、要求言語行動(行動分析学でいうマンド)の研究が始まったころ、「寝た子を起こすような実践はやめて」という批判もありました。
 「正の強化で維持される行動の成立とその選択肢の拡大」といった場合、そもそも重度の知的障害のある個人では「やりたい行動(=正の強化で維持される行動)がみあたらない」という“抵抗勢力”からのコメントもありましたけど、それは「何かがしたい」という「欲求」を抑えたい状況からくる発言だと思います。


8)脳死患者の臓器移植の規制緩和をすることは「援助・援護・教授」にあてはめられるか?
 これはどうでしょうねえ。立岩先生ならなんて答えるかなあ。確かに「臓器」が移植されれば行動の選択肢の幅は広がる場合もあるとはいえます。しかし、これってQOLの問題ではなく、生死にかかわるADLですよね。あまり簡単に、QOLの前提としてのADLというふうな序列を置くのは、ちょっと危険な気もします。ADLがあってのQOLという言い方は、極めて医療モデルなんで。その観点からいうと臓器移植については対人援助の範疇とは言えないかも。


9)援助は環境をつくること、援護でそれを持続させていく、という風に捉えると、応用行動分析の「目の前のあなたの科学」という特徴と、公共的表現を追及することは矛盾しないか。
 応用行動分析は「前の前のあなた」の行動の選択肢の拡大に向けて、そのことを継続的に実現するために、単に自分の手を動かすだけではなく、関係する人たち(その中には最初の援助者も含む場合もある)に、「なにが必要か」を伝えることを使命にしていると思います。「公共的表現」とは、要するに言語行動(verbal behavior)であるわけです。
 援助設定とは、まだ当該の個人を取り巻く環境にはないものである場合もあります。援助とは、行動成立のための「新しい」環境です。新しい環境を、当該の援助者個人で支えられる場合もありますが、多くは他者の協力が必要でしょう。


10)「重度の知的障害のある人にも選挙権はあるのは当然」と同様に、視覚や聴覚に障害のある人に「大切な情報を教える」という姿勢は問題である。くだらない情報でも接する権利があるだろう。
 その通りだと思います。かつて(30年前)、わたくしがまだ東京の大学にいたとき、京都近郊の知的障害の人たちが利用する「更生施設」に訪問したおりに、ちょうどお盆で帰省する前のパーティーが開かれていて、そこで飲みたい人はビール飲んでました。そのときまで、なんか「知的障害のある人に酒を飲ませるのは?」みたいな認識だったんですけど、はたち過ぎてる人には当然ですよね。たばこも同様。アダルトビデオも同様。