対人援助学会へむけての助走

marumo552009-09-22

 11月7日に、立命館大学衣笠キャンパスで第一回の対人援助学会を開きます。あと1ヶ月あまりしかないんですが、ま、この学会をはさんで、HP上で継続的にテーマを追求していくという、基本ゆるいかたちをイメージしています。

 さて、そんな折に参加した19日のヒューマンサービス研究会ですが、対人援助、ヒューマン、サービスといった言葉が、それを発言する人、そしてそれを聞いた人に与えるイメージも実に様々だということを改めて感じ入った次第。様々であるという意味で「危ういものである」以上に、これまでの歴史の中でも、ヒューマン、援助、といった名のもとに、他人や他国に攻してしまったり国内でも特定のグループを抑圧したり、確かにそういうことは枚挙に暇がありません。そうした観点から、「援助」といった単語を出しただけで顔をしかめる人もいます。さらにはもっとミクロにも、そもそも「人を助ける」というのは「上から目線」であると、一昨年のオープンリサーチの報告会でも、木村政雄氏に批判されたのが思い出されますねえ。大学の授業でも「人を助けられるなんて思うなよ」とか宣言される先生もいますよね。

 先日の研究会での村上陽一郎先生の講演の内容も、ヒューマンとして先住民族は入っていなかったりといった歴史の上に、「ヒューマン」という表現を使って行われてきた様々な事柄、そして、これからその言葉を冠した活動に対する警鐘とも言えるでしょう。正義と幸福を混同しないこと、一律な幸福の追求をするのではなく、その否定の部分、多様な不幸からのスタートする、という内容については、最近の日本心理学会での立岩先生とのシンポジウムにおける「生存学」の主張を思い起こしました。

 さて、ヒューマンサービス研究会のほうですが、“ヒューマンサービスを実現するために”といった表現が随所に散見されます。ようするにヒューマンとは「ヒューマニスティック=善なるもの=理想的なもの」といった価値がすでに含まれているんですね。
立命館では、これまで応用人間科学研究科立ち上げのときにも命名についての議論を重ねましたが、Human Servicesという言葉自体については、そのように善なるものを託すようには考えてはいませんでした。「人が人に(直接的に)おこなうService」くらいの意味だと思っていました。国際援助などとの対比としてです。

 行動分析学をまなんだ人は、自由も尊厳も、ある文脈におけるある個人が表現する社会関係に対する一種の言語行動でしかないことを知っています(Beyond Dignity and Freedom)。自己決定も同様です。

 対人援助の実践を行う際には、あらかじめ援助者が、目標や理想(幸福な状態)を想定することができるか。そうした規範的「幸福」の定義を目標にしたときから当事者への浸襲の可能性はすでに始まっているのか。では、一方で個別の個人の不幸からスタートすればあらゆる浸襲的なリスクを回避することができるのか。個別の個人の不幸からの「回復」の道筋は当事者にもっぱらゆだねることができるのか。