船橋先生のコメントに対するリプライですう。

marumo552009-10-16

 船橋先生のコメント(斜字)にリプライさせてもらいますう。

「単独でできる必要性を強調しない」という望月先生のお話には私自身、強く共感致しました。昨今、「自立」という言葉のイメージが先行し過ぎて、「援助付き自立は自立にあらず」的な風潮があり、非常に苦々しい思いをすることが多いです。

どんな人でも自立しているといってもそれは「援助つき自立」のことだと思うのです(さらに言えば、「自己決定」というのも社会的行動関係のひとつで、これもどこまでも「援助つき自律」に過ぎないと思います)。そもそも「行動」というものが、社会で生きている以上、ほとんどが「援助つき行動」(社会的(強化)随伴性で成り立つ)ですよね。シンポジウムでもお話したように、「障害」(差異)があると、多数派の人とは異なる支援が必要なので、とかく目だってしまい、何か、人よりお金も沢山かけなきゃいけないように思われがちですが、多数派が享受している諸々の「(強化刺激あるいは弁別刺激としての)援助設定」の規模に較べれば僅かなものではないか、という考え方もあると思います。ちなみに、この行動とはそもそも「援助つき行動」という考え方が行動分析学の基本だと思います。


 一方で、教育現場では「指示待ち」と呼ばれてしまう子ども達(そういう風にしたのは誰だ〜というツッコミをいつもしていますが)がおり、この子ども達は、指示ありの「できる」を増やすことが優先されているようにも思えます。特に知的障害教育はその風潮が強いかなと感じています(これは現場に対する挑発的確立操作ですかね)。個人的にはフェーディングできるはずのプロンプトの残骸が多すぎて、当人の「やりたい」が見えなくなっている状態と捉えていました。


「指示まち」の関係を作ってしまう随伴性は、罰や嫌悪刺激をつい使用してしまうのと類似してますよね。指示を出して行動を起こさせる側にとっては、手っ取り速いということがまずありますが、「指示を出す」という行動に対する社会的随伴性も絡んでいるように思います。就労実習場面における学生ジョブコーチの実践でも、どうも学校の先生が入ると、学生よりも「指示を出す」行動が多いという印象を受けます(逆に、学生は「指示を出さなさ過ぎる」「甘い」とか言われます)。これは先生のせい、というより、学校と実習先の事業所との関係から生まれるものとも思われます。実習先は、学校の先生が一生懸命営業をしてゲットしてきたものであり、あわよくばその場所に就職もできればと考えているわけです。障害者就労をしている企業などからも「先生の誠意に感じ入ってお引き受けしました」みたいなコメントもよく出るので、先生としては、企業に対してその「誠意」を見えやすくアピールしなくてはなりません。そんなとき、「ああ、あの先生は黙ってみてるだけですね」と言われたら、まるで生徒指導をさぼっているような評価を受けているように感じてしまうでしょう。なかなか「いや、一人で出来るところは極力、手を出さないようにしているんです。これがなかなか辛いんですけどねえ」とは言いにくい。学生ジョブコーチは何せ「第三セクター」ですから、楽に対応することもできるんですよね(とはいえ、学生ジョブコーチもしばしば「板ばさみ」の憂き目にあうこともあります。もちろん学校の先生に較べてそもそも支援スキルも乏しいということがあるのですが。)
 プロンプトの残骸が残る、というのは、プロンプト行動が強化されるということであり、その随伴性も様々であるということです。もちろん、そもそもプロンプトをフェイドアウトできないような課題分析表を作ってしまう、という誤りも、結構ありますけどね。これらのことは大学の教員と学生の関係においても全く一緒です。他人事ではないんですよね。


 前置きが長くなりましたが、確認・質問です。望月先生の描かれる「できる」を創造するにおいて、障害のある人(当事者)を支援する周囲の人々が、外せる支援・残すべき支援を明確化して、行動を成立させることが「できる」の真骨頂であるというメッセージを強く感じたのですが、この理解でよろしいでしょうか。
「できる」を創るの理解を深めるにあたって、「個人のAbilityを補って、何とか行動を成立させる」という意味が前面に出ないようにしたいと考えました。よって、上記の確認をさせて頂いた次第です。

 前にも書きましたが「できる」という表現は、山本淳一池田 聡子先生の著書「できる!をのばす行動と学習の支援―応用行動分析によるポジティブ思考の特別支援教育 」からのパクリですからね。為念。
 おっしゃるように「外せる支援・残すべき支援の明確化」というのは、真骨頂だと思います。もちろん、外すも残すも、まず「できる」状況を創るというのが前提にありますけど。先日のシンポジウムで言い忘れましたが(っていうか、もうあまりに色々なところで紹介しているので言いはばかれたのですが)、愛知県コロニー時代の師匠である(故)冨安芳和先生に言い渡された「できる」の真髄は、支援のスタンスとして、
          × から ○ ではなく
          ○ から × 

というものでありました。今を×(不全)とみて○(普通)にしていく、というのではなく、今は常に○、将来振り返って、「ああ、あの頃はいまいち×だったね)」となるように心がけよ、ということです。簡単に言えば、常に「今を認めよ」ということです。行動分析は「ほめること」と誤解している人もいます。「ほめる」ではなく「今を認める」という態度が行動分析の真髄であると思います。



>学会準備等でお忙しい中、恐縮ですが、お時間のある時に宜しくご教授下さい。

 ここで船橋先生とコミュニケーションさせてもらうのも学会準備のうちです。というか、もうここから学会は始まっていると考えてます。


 なお、「今を認める」行動分析的(対人援助学的)方法を貫徹した「脱ひきこもり支援」を実践している「ファーストステップ・ジョブグループFSJG(代表:上田陽子)」に関する少しまとまった冊子ができあがりました。オープンリサーチセンター事業の一環として発刊している「ヒューマンサービスリサーチ16巻『ファーストステップ・ジョブグループ(FSJG):対人援助学的「脱ひきこもり」支援』です。
 なんと、全巻PDFで簡単にDLできちゃいます。http://www.ritsumeihuman.com/hsrc/resource/16/open_research16.html