バリフリコメント(続き)

marumo552009-12-02

 今週のバリアフリーの資料も、第5回のキャリオーバーです。今回で、第5回の資料使い切ります。

 前回のコミュペに「『障害者』という表現に関して、『障がい』や『障碍』といった書き方をよく見ますが、どれが適当なんでしょうか」という質問がありました。
 「害」という文字は確かになにか「害がある」というネガティブなイメージがあるので使わないとか、「碍」(さしさわり)という表現を用いることで、あくまで当事者の側からの表現にする、といった意見もあります。
 聾者とか「ろう者」とかの表現(deafとDeafの違いにも対応)については、後者はあくまでも手話を母国語とする、という宣言でもあると思うのですが、「障害」という表現については、わたくしの認識としてはそれほど明確なポリシーのようなものはありません。
 ただ当事者の自らへの表現としてどれが多いのだろうという、(やや日和見ですけど)そうした判断基準はどこかにありますね。

 いろいろな学会で繰り返しこのことは問題になるのですが、果たして呼び方を変えることで何か現状が変わるのだろうか、という疑問もあると思います。なにか支援なり権利擁護の政策変化で、当事者をとりまく社会的随伴性が大きく変わるといった積極的な仕組みの変更に伴うことなく、ただ命名を変えるということを、(それをしかも第三者が)提唱するだけ、ということにはちょっと疑問もあります。
 いま、バリフリの授業では、刺激等価性について話をしていますが、呼び方が変わっても、結局同じ機能を持つのであれば、それは最初は少しイメージが変化したかにみえて、結局、昔の表現と同じになってしまうということが行動の原則としてあるわけです。

 テレビでもやってましたけど、チャレンジドという表現もありますが、誰が何をチャレンジするのか、もし本人がいつも挑戦しつづけなきゃならないというのも、ちょっと問題でしょう。昔は、いわゆる問題行動のことをチャレンジング・ビヘイビアとかいう場合があって、これは、不合理に問題を起こしているのではなく、現状の環境への挑戦的行為なんだ、と言われている時期もあったけど、それも何か、違うな、と思ったもんです。

 行動的な考え方からすれば、その個人全体を表すことばとしては、あくまでも「中学校2年生の中村正君(もちろん仮名です)」といった他ならぬその個人を特定する表現を使うべきでしょう。その上で、なにか事を成し遂げようとする際には、「視覚に障害がある中村君」といった具体的な障害(これは障害物競走の障害でいいんだと思います)の「ある」個人という表現をとることで、それに対する環境的な援助設定を特定していく、という方向がいいと思います。
 
 最近の応用行動分析の論文では、それほど当事者の属性を詳しく書いてないものもあるでしょう。もちろん触れなくてはならない状況もあるのですが、言語訓練をしようというときに、車椅子ユーザであることが関与するかどうかは、そのもともとの言語訓練の目標は方法次第なので、はなから頭の席から足の先まで、障害性を開陳する必要はないですよね。

 前に、胸のCT写真と膝のx線を同時にとって、同じ袋に入れてくれて、それを整形外科医に持って行ったときに、胸CT写真も整形であづかっておく、といわれて、胸ctはそちらと関係ないことだからと変換を要求して看護士にいやな顔をされたことがあるけど、必要な治療なり対応は、自分で決めます。という意味で、全体が障害者ということではなく、必要な身体・精神部分を、それぞれに自分が判断してその対処を依頼する自由があると思います。