応用行動分析レジュメと前回コミュペコメント

marumo552010-06-10

応用行動分析の新しいレジュメ(第7回:今週、入れるかどうか)アップしてあります。
PPのみですいません( http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~mochi/10ABA07.ppt )。

 前回のコミュペから抜粋

●先日、他の講義で「乳幼児の時に、泣いたら人が来てくれるという、人を操作することができるようになると、自己優越感が高まり、セルフエフィカシーの上昇によって、成長に良い影響を及ぼす」という説明を受けました。しかし、この講義では、泣いたら人が注目するということが強化になって、泣き止まなくなるというあまりよくない例として挙げられていました。この2つの意見は対立しているように思われるのですが、先生はどうお考えになるでしょうか。

(リプライ)
 いわゆる「抱き癖」の例を、赤ん坊の「泣き止む」と養育者の「抱く」という2つの行動の間で相互の強化をしあっている状況の説明として紹介しました。「社会的悪循環」という言葉も用いて説明したために、上記のような「よくないとする」印象をもたれたのだと思います。
 改めて付加します。「泣くと抱く」という随伴性によって、泣く行動がオペラント行動として強化・維持されている状況は、私も、必ずしも悪いとはいえないと思います。それどころか、この次の授業で紹介する要求言語行動(マンド)という言語行動の基本になる随伴性関係である可能性もある、という意味で、好ましい事態とも言えます。「正の強化で維持されるオペラント行動の選択肢が拡大する」という一般的な目標に照らしても、この「泣く」という行動も、確かに「抱かれる」という結果によって維持される行動ですから。
 授業では、自傷行為などにみられる典型的な「社会的悪循環」の仕組みを、あくまで、より身近な例で紹介するために「抱き癖」を使ったわけです。多くの行動分析学のテキストでも同様のスタンスだと思います。
 ただし、親の行動としてみた場合は、これがもし、もっぱら「負の強化」で維持されている(泣き止むことで強化されている)という場合、その関係は必ずしも維持すべき健全な状況であるとは言いがたいかも知れません。静かになってくれることで強化されるという随伴性がその後も続いてしまうようであれば、要求言語行動(マンド)を伸ばしていく、という、さらなる行動の選択肢の拡大という展開にはなりにくくなるかも知れません。
 ちなみに、「自己優越感が高まり、セルフエフィカシーの上昇によって・・」云々という説明は、これらを独立変数として操作することができません。社会的に強化される、という説明のほうがシンプルかつ実証可能ですから、行動分析学ではこっちを採用するわけです。

● 障害児の例で、なぜ手のひらひらより頭たたき行動の方が良く起こったのかがわからない・・・・。頭叩くと痛いだろうに。
 (リプライ)
 「手のひらひら」より「頭叩き行動」の方が良く起こる、という話ですが、もう話した本人(ぼく)も、どんな文脈でお話したか忘れましたが、もしこれらの行動がそれに対する周囲の人の対応(「やめなさい」!とか、物理的な制止)によって強化されるような行動である場合には、インパクトのある行動の方がより強化を受ける(つい対応してしまう)確率が高いですよね。聴くに耐えない暴言みたいな「問題行動」も、周囲が無視しようと思っても顔に出ちゃうといった随伴性が出ちゃうために維持されるような場合もあります。
 「頭叩くと痛いだろうに」って、ほんとにそうなんですけどやるんですよね。泣きながら自傷してる、ていうことは沢山あります。

●全課題提示法はすごくためになりました。
 (リプライ)
 全課題提示法って、要するに、行動連鎖の最初から(援助つきで)行動させていくので、結果的にそれで「できる」場合には、教える方も簡単に強化されるということがあります。動物だと、まずこのようなやり方は無理です。人間だからできる。だからこれでいいじゃないか、というふうにも言えますが、色々注意も必要です。
 これは「全課題」の元になる課題分析の仕方に関わるのですが、つい行動の形態が優先されて機能(結果としてどうなる)が置き去りにされることがあるのです。各行動成分(ステップ)を援助(プロンプト)とそのフェイディングという形で成立させていく、そのこと事態はサクサクとできているようでも、実際の場面で、ちょっと環境が変わったらわけわからなくなっちゃうという事もよくおきます。最初からやりなおさないとダメみたいな。
 必ず、各ステップの終了(結果)が明確になるようにステップ化する、特に最終ステップでは、全体の行動の連鎖を、強化できるような結果となっていることが大切です。そうでないと、いつまでも当該の行動を自立的(単独で行う)に行うようにはなりません。指導者が指示を出したり、「それでOK」といった、(当該行動の固有の結果ではない)外付けの強化がないと行動できない、ということになりかねません。

●今の学生は「発表する」場が少なくなっているのでしょうか。3回生になっても人前で話すことがそんなに数多くなく経験が足りないような。
 (リプライ)
それでも、昔に較べたら、みんなプレゼンは上手になったとの印象もあります。昔は、人前で話すだけでパニくったりしたもんだけど。あんまりアガってるっていう印象がないですよね。
それでも、身内だけじゃない場でのプレゼンの機会は努力しても作ったほうがいいですよね。

●プロンプトの程度について、「軽い〜重い」順序で系統的に行うという話でしたが、その順序はどう決まるのでしょうか。
 (リプライ)
確かにこの順序はテキストによっても記載内容が違いますよね。プロンプトは全ての人にとって同じ序列があるのではなく、当該の個人にあわせて決めておく、というのが原則だと思ってください。

●何から何まで記録をとることはそもそも難しい。「記録をとれない」と思うのは、具体的目標が決まっていない、ということであり、それは実は無責任な実践なのだ、という話がありました。でも、まじめな先生ほど、のちのちどこかで目標に関係してくるかも知れないので採っておきたいと思うのではないでしょうか。一概に無責任な先生が記録がとれないといってよいのかなと思いました。
 (リプライ)
 確かに、「記録がとれない」と困っている先生がすべて無責任とは言えないかも知れません。ある子どもの現在を余すことなく記録しておきたい、という思いそのものは、もちろん熱心な先生の態度とはいえます。しかし、動機や態度はどうであれ、結局、「全然、記録がとれなかった」という事実が残った場合には、それはやはり、職業的対人援助としては、結果として無責任といわざるを得ません。
 総合支援といった名のもとに、色々な人との連携が前提となる作業だけでに、あえてこのような表現(「無責任」)をとっているのです。
 黙々と実践(手を動かす)だけじゃ困る、情報を伝達するのも先生の仕事(報告も実践のうち)である、と、どこかの学校で発言したら、ひどく怒った先生がいました。きっと、上記の意味でいうところのまじめな先生だったのだと思います。もちろん、目標がきまってるにせよ、実践しながら記録というのは大変なことではあります。学生ボランティアなども、そのために配置してもよいのではないかと思います。

●援助に共通言語が不可欠だということに疑問がわきました。・・・私は留学生イベントの企画をしていて、言語の異なった人達に楽しんでもらえるようなジェスチャーゲームなどを考えています。それは授業内容の援助とはまた別の話なのでしょうか。
●援助する側、またされる側が英語を理解できない場合には、どのようにするのでしょうか。その場合、行動成立のための援助設定以前に、言語学習をしなければならなくなり、行動成立に辿り着くまでに大きな回り道になるのではないでしょうか。
 (リプライ)
 共通言語というのは、この授業で話したのは、対人援助に関わる関係者間での情報移行にかかわる言語という意味です。ある生徒に対して担当の先生が見つけた(あるいは創造した)「これがあれば『できる』」でいう「これ」(援助設定だったり、教授方法だったり)が、いったん先生が変わってしまったら、またゼロからスタートということのないようにするためです。先の留学生イベントでいえば、それは必ずしも留学生とあなたの間で日本語(英語でもなんでもよいですが)という共通言語が必要だという話ではなく、そのイベントがどうしたらうまくいったのか、という情報を次に伝えるための記録や報告としての言語という意味です。

 一方、では、被援助者と援助者の関係の問題として「言語」が不要かというと、そんなことはありません。援助とは、当事者の行動の選択肢を拡大することを目的としますが、その選択肢の内容は援助者が勝手に決めるのではなく、当事者による要求に応えるということが基本です。さらに、いったん開始された援助やその過程で、援助者によって提示された物や行動の内容(選択肢内容)について、いつでもそれに当事者がストップをかけるような広義の言語的回路を開いておく必要もあります。これは前回の研究倫理のところでも紹介しています。
 そのことは、第7回からの授業で紹介していきます。