アマルティア・センとQOL

marumo552010-06-26

 昨日、せっかく矢野顕子で勇気づけられたので本日は勉強。って、今更ながら大人買いしたアマルティア・センの本を読む。「応用行動分析を行動分析する」という原稿の準備です。まずは手近なQOLから、というわけで、ヌスバウム・セン(編著)「クオリティー・オブ・ライフ−豊かさの本質とは」(竹友安彦監修・水谷めぐみ訳:里文出版,2006)を、研究室に籠もって読む。

 センのキーワードの「潜在能力」(Capabiity)とか「機能」(functionings:お、複数型!)とかって、そりゃ行動的QOLの立場からみたら気になります。で、この本の第一章「何の平等か? 厚生、財、潜在能力について」G.A.コーエンを読むと、んんん、なんかセン先生がまるで行動主義者が叱られているように批判されてる。コーエン生意気。しかもミッドフェアとか、勝手な概念持ち出してセン先生を責めるんですよお。

 コーエンは、以下のようにセンの「潜在能力」を解説している。


センは人が財から何を得るかということについての厚生主義者の視野は狭過ぎると批判する。なぜなら厚生主義者は、「人の潜在能力にではなく、彼の心の中の反作用(his mental reaction)」に焦点を合わせるに過ぎないからである。例えば、人が食べ物からどれだけの栄養を摂取するかではなく、その人がそのような栄養からどれだけの効用を得るかといった、心の中の反作用あるいはその人の気持ちのみに焦点を当てている。人は自分がおかれた状況に順応して自分の期待するものを調整しているかもしれないということを考えると、効用は政策のためのガイドラインとしては不適切である。ある人が逆境の中で微笑みを絶やさずに果敢に頑張ってきたからといって、補償に対するその人の要求を無効にするべきではないのである。(p.34)
  ―――――――――――――――――――――――――――――――――――
  センは潜在能力という概念に、積極的な運動や行為を連想させるようなアスレティックなニュアンスを与えている。ゼンはそれを、行為によってその可能性をフルに生かすマルクス主義的な人間像に関連付けており、それは受動的な消費によって最高善(summum bonum)を見出す人間像とは対照的である。(p.44)

 
これだけ引用すると、ほとんどセン(コーエン先生の表現を信じれば)は行動主義者ですよねえ。厚生主義者に対する批判である「人の潜在能力ではなく、彼の心の中の反作用に焦点を合わせるに過ぎないからである。・・人は自分の置かれた状態に順応して自分の期待するものを調整しているかも知れない」っては下りは、ほとんど主観的QOLに対する行動的QOLからの批判(主観的QOLは資源配分とは無関係に独自に行動形成される言語行動である)そのものです。

 コーエン先生は、センは次第に「潜在能力」という概念を、次第にそうした「アスレティックなニュアンス」がつまりは行為や選択、とどのつまりが「自由」をこの領域の指針にしておるが、実際には、社会には当事者が選ぶの選ばないのと言えるような悲劇的な境遇があるわけで、そういう人に対しても「潜在能力」(つまりは選ぶことが善)を条件とするのは、ちょっと違うじゃないか。センの言うところの潜在能力には、行動の選択の部分もあるが、マラリアにかからないでいられるといった、必ずしも自分の潜在能力(選択)で解決のつかないこともあって、しかしそれを除いてはそそもそもの対象であるwell-beingは成り立たないだろう、と批判するわけです。
 
 そこでコーエン先生、「潜在能力」という概念はそうした、積極的選択やその自由という部分と、飢餓状態にならずに居るという(状況によっては他者の助けを受動的に受ける)の両方が入っているんだと、その行動主義的な傾向を解体しようとする。その上で、持論である「ミッドフェア」なる概念を持ちだしてセン先生のあいまいな部分を批判・補完しようとする。なんかミッドフェアって、気持ち悪い概念だなあ。結局のところ自由と平等のおりあいクッション緩衝材がミッドフェアか。バンデューラの折衷案が思い出される。(旧い話です)

 「がんばれ行動主義者セン!」って、まあ早とちりでしょうけど明日は、がんばってセン自身が書いている「潜在能と祉」を読んで、行動分析世界での価値のありようとの比較をしてみよう。劣悪な環境における生きる最低限の財の受動的配分での「平等」と、高度な生活レベルにおける潜在能力による選択の「自由」、そして、おお、前者はBI:ベイシックインカムで補填していけばいいのか、って、もうこの世界の議論が全部見えたか!! てなわけないだろうから明日また勉強しよ。