アマルティアセンのQOLの続き

marumo552010-06-27

  昨日の続きです。コーエンさんは、「潜在能力」は充分条件ではあっても必要条件ではないとします。生きるか死ぬかの場面での食べ物は、センが基本にすえる「潜在能力」が(しばしば指示するようにみえる)自発的行為に関するものではなく、他人が与える場合もあるというわけです。センの潜在能力は実は自発的行為も受動的なもの(つまりはgetでもgivenでも)の双方を指すと。Getだけで言えるのは、それは先進諸国でゆとりのある人間の場合で、飢えや疾病に絶えずさらされている状況にあっては、givenであれそれを保証されるべきだというわけです。

  コーエンは、従来、財と効用(ここでは個人の満足:ニーズの充足)という2つの軸しかなかったところに、センは第三のものを持ってきたことは重要である、と。しかしそれはセンがあいまいながら主張しているような能動的な行動(潜在能力)による機能(funcitonings)というだけではないというわけです。そして、第三の項目としては、ミッドフェアというのを想定せよと主張します。


p37
 それまでは、人の状態の評価を平等主義的観点に基づいて行うためには、財−ミッドフェア−効用という評価軸の両端のどちらかに焦点をあわせるのが正しいと考えられてきた。ロールズ主義者は評価軸の始まりの部分だけに注目し、厚生主義者は終わりの部分にだけ注目した。厚生主義者は、人それぞれ異なる側面をあまりにも考慮しない客観的過ぎるものだとしてロールズの尺度を批判した。一方、ロールズ主義者は、そのような側面を過大に重視する主観的過ぎるものとして厚生主義の用いる尺度を批判した。彼らが相手の指示する側面を否定する理由を考えれば、双方とも、相手が提唱する尺度よりはミッドフェアを好むはずである。

 昨日も触れたように、かつて「行動的QOL」が従来のQOL尺度について批判したことも、ここでいう「財」と「効用」という2つの次元だけでQOLをはかる方向です。前者は客観的(物理的)QOL、後者は主観的(心理的QOLに対応します。この本(「クオリティー・オブ・ライフ」)では、前者では、財そのものが当事者に何を与えるかはわからないし、一方、後者は、あまりに個人差(idiosyncratic)があると言う論ですが、行動的に言えば、後者については、それ(「満足感」の度合いを表明する言語行動)はその対象に対する正確なタクトである保障はなく、独立にシェイピングされてしまう懸念が常にあるからです。
 ミッドフェアってしかし、これまた曖昧な表現だな。人間が生きる上で必要なもの、そして、個人の嗜好によって選ぶことの両方を含んだ機会の充足とでも言えるのかな。

 はて、行動的QOLという概念を主張すること(これは、もう昔から応用行動分析の世界では常識なんだけど)について、センらの主張は何かを加えたりあるいは再検討を迫ってくれるのか?