八百長

marumo552011-02-11

 大相撲の八百長が問題になってますけど、今回ついに本場所中止にまでなった文字通りの「決め手」は、携帯メイルという証拠ですよね。
 「バリアフリーのための心理学」を受講した人、とりわけ「テレビ電話の特徴を静止画メイルと対比して述べよ」という問題を選択した人は思い出していると思います。そうです。揮発モードと不揮発モードの違いです。

 これまでも八百長の問題は何度も何度も取りざたされてきたのに、いつもうやむやで終わってしまったのは、結局、八百長の「交渉」が、生身の人が走り回って耳打ちしていたという「揮発モード」だったのに対して、今回は「残存性」こそが命の、メイルという不揮発なモードでそのプロセスが残っていたからですよね。

 「不揮発な何かに残す」ということの重大な意味は、相撲の八百長の当事者にはさぞかし「残すんじゃなかった」という後悔先に立たずの話ですが、「個別の支援教育プラン」などに代表されるような、生徒の「できる」記録も、なぜにそれを他の人にも読める・見えるかたちで保存するのが重要なのか、ということも、今回の事件の表現モードの特質からも知れようというものです。

 なりゆき上、八百長という例えが悪い話で書き始めてしまいましたが、先週行われた京都のデュアル会議でも、講演者の秦先生からも「暗黙知からナレッジに」という情報を公共的に可視化・保存することの重要性が指摘されましたが、事の重大性という点では全く共通の問題です。

 現在苦労してる厚労省の調査で、「連携」や「情報移行」の現状やシステムの実例を全国調査しているのですが、「ケース会議を開いてます」「随時、先生が集まって相談します」っていうやりかたの連携や情報共有では、揮発モードで終わっちゃう場合があるんですよね。その先生たちが一生連携していけばよいかも知れませんが、異動しちゃったら、もうそこで揮発(消滅)しちゃうわけです。
 と、そのように書くと、なるほどそれじゃ次の担当の先生や移行先の支援者は困るよね、だから記録が大切だな、ってそのあたりで納得しちゃうこともあるんですが、それだけじゃないんですよね。

 もうちょっと本質的なことは、不揮発なもの(記録)として残されないと、生徒という当事者がその時点でも将来的にもキャリアアップのためにそれに自身が関わりハンドル(自発的利用が)できる「ポートフォリオ」として使えない、ということがもっとも問題なわけすよね。

 今回の大相撲では不揮発モードで八百長の「てだて」まで残っちゃった力士は、キャリアアップどころか廃業でしょうけどね。ま、それほどまでに不揮発モードは個人のキャリアに大きく影響を及ぼすというお話ですね。