送り火

 今年も明日は送り火。毎年、どうもこれは京都人の先祖の送り迎えなんで部外者としてはちょっと疎外感があったんですが、今年は、陸前高田の薪を使うとか使わないとかで、ちょっと後味の悪い結果に。どこにも悪意はないのでしょうが。
 当初、放射線量を調べた上で、陸前高田の被災者の方などの名前や願いを書いたものを京都の送り火で使うはずだったのが、京都市民の反対にあって、それではって、新たに別の用意してもらったらそれセシウムありと。であげくは京都市長も謝罪で中止へと。

 陸前高田の薪の中には、そりゃ場所が場所なんだから汚染されているものも入るかもというのは予想のたつところ。こっちのやつは大丈夫だって新たな500本用意したのにそれに汚染というのは、ずいぶんとアンラッキー。

 しかし、この一連の決行・中止・決行・中止という関係者の反転行動に対応する刺激は、本来「汚染されたもの」と「汚染されてないもの」の弁別であるはずが、いつのまにか、「陸前高田の薪は汚染されている薪」というまさしく地域指定のイメージづくりに結果としてなってしまっている。汚染発覚前から反対した京都市民のいけずもしょうがないけど、どうにも刺激対象による区別なのか、線量の多寡なのか、世論の多寡なのか、いずれも腰がすわってない判断が、京都にも陸前高田にも残念な印象として残ってしまった。

 それぞれ皮をひんむいて中だけ使うとか、線量の多寡(有無)で1本1本区別して使用してもよかったんじゃないでしょうか。これでは、線量の問題ではなく、陸前高田という産地の問題としてその「区別」は残ってしまう。
 
 NHKの番組で、9.11直後の、飛行場とかで、アラブ系の人をチェックする、という「民族プロファイリング」に断固反対して、白人であれアラブ人であれ全員調べるという方針をつらぬいた日系議員の話が紹介された。これは、かの昔の第二次大戦における日系人の隔離政策という自らの個人史的文脈も絡んでおり、その議員はずいぶんと非難され白人ジャーナリストに「70歳の白人女性と若いアラブ系の人がいたら、どちらを調べるべきかは明白じゃないか?」と問われたとき、「基本的に同じように調べます」と言い放ったその議員にまったく躊躇はなかった。薪の使用ひとつ、腹決めて決断できなかった某市長とあまりに違うな。

 米国旅行で、あまりに厳しいチェックに、なんでこう神経質に・・と文句を言う人も多いが、全員調べるというその作業の裏には、「民族プロファイリングをしない」という断固たるジャスティスがあったわけですね。目からうろこと涙。

 薪でもわらでもお米でも魚でも、どの県の産物か、ということではなく、ましてや原発からの同心円距離で、確率的な推測(プロファイリング)するんじゃなくて、魚やさんや八百屋さんで、線量をひとつひとつ個別にはかって、線量の低いもの、あるいは線量の低い部位を買えばいいのではないか。どこそこの産だから大丈夫、とかあぶないとか、個別に弁別できないような判断方法を強いるから「風評被害」ができるわけですな。

 発達障害とかADHDとか、何歳だから、とか、そうした属性によるプロファイリングも同様の問題をもってるわけですよね、と、つくづく思った。