ふしぎなキリスト教

marumo552011-09-16

 「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)。
 人はなぜある宗教を信奉するにいたるのか。これもまた9.11にも関連して。宗教戦争的なプロファイリングが普通に、対立当事者にあっても存在しますが、そもそも、地政学的あるいはなんらかの事情でグループである人たちが、特定の宗教(一神教多神教キリスト教、その他)を信奉するに至りそれが維持されるのは、リアルな歴史的、社会的随伴性で表現できるんじゃないのか、という極めてシンプルな問いについて、橋爪大三郎×大澤真幸が対談形式で論説。

 行動分析学を学ぶ人、必読。もちろん対人援助学を学ぶ人も必読。対人援助とか利他行動とか、集団的あるいは社会的随伴性の仕組みを、最近、みな一生懸命考えてるわけですが、そも、その背景になる、しかもなかなか顕在化・可視化することのない随伴性とルール形成の相互関係でもある「宗教」に関わる集団行動がどのように成立したのか、それを表現できるのか、というのは、繰り返し行われてきた作業でもあると思いますが、ここでは「はじめての構造主義」以来の「あのわかりやすい」橋爪大三郎氏と大澤真幸氏が、あたかも”口プロレス”の形式で対談しています。大澤氏も自身でまえがきに書いているように、本人が読み返しても笑っちゃうし、面白い。

 もう神様に酷い目にあってばかりのユダヤの民はそれでもなぜ信仰を保てたのか? これについて、橋爪氏は、いじめられっ子の自尊心と、なんと、部分強化の行動原則の例(なぜかチンパンジーがバナナを部分強化で得るという状況ですが)をひいて解説が始まります。
 ま、その次に「再後に、もう少し本気の答えを言いましょう」ということになるのですが、もちろんわれわれも、上記のちゃっちい心理学的解説ではなく、「その次」の本気の社会的随伴性の問題はなんだろうということになりますよね。

 あ、ルール支配行動を、i-pad使って実験しようとしているO君。行動分析学会から帰ってきたら是非買って読みなさいね。


 写真は河北省の秦皇島の「喫茶店」で、烏龍茶を淹れてもらっているの図。結構高い。