バリフリ12月2日コミュペ

 12月2日(金)のバリフリのコミュペから抜粋とコメントです。

 思いのほか、「昔の」某大施設の紹介ビデオについて、「もろ手を挙げて」というわけではないにしろ、色々な側面で肯定的な意見が多いのに正直驚きました。これまでは、「見て驚いた」というコメントが多かったんですけどねえ(今年も、もちろん多数の方がそういう感想を書いていますが)。これを見てもらった時の、当方の導入の仕方の微妙な違いでガラッと印象も変わる可能性もありますが、みなさん「対人援助」の作業に対して「これは大変な仕事であるから、あまり批判しちゃいけない」って思っていませんか? もちろんそこで働く人たちは、今でも大変な仕事に奮闘されていることは事実なのですが。 
 刺激等価性の手続きについては、毎年「何のことかわからん」というご指摘が多かったのですが、こちらは比較的みなさん良く理解してもらっていたようです。

 以下、コミュペの抜粋とコメントです。


1.(昔の)大施設の紹介ビデオについて
●「重複障害を持っている人が、集中的に施設で訓練することは、とても身になるだろうし、それには一種の厳しさもなければ成り立たない所もあると思います。身近で言うと受験勉強を集中してやるようなものだと思います。けれど、やはり人間である以上は、文化的な生活も取り入れたいし、その人その人に合わせた休けいも必要だと思います。(中略)
また確かに障害のある人をそのまま受けいれられる社会というのがある方が良いとは思いますが、やりがいや生きがいに、その訓練がつながっているという考え方もできると思うので、個人個人の目標設定を定めて訓練しつつ、楽しむことも忘れないでいきていけるような施設が多くあれば・・・・
 
 ストイックというか厳しい意見ですねえ。受験勉強と同列に語れるかなあ。それと「受験勉強というのは厳しくてつらいもの」という前提もなあ。おっしゃるように、やりがいや生きがいにつながってるということの見通しがあればいいのですが。「早期に訓練をしておかないと、後で取り返しがつかない」というのは、負の強化ですよね。現実は現実であるということも確かですが。

 ●「・・・10m先のトイレに行くのにも、ものすごく時間をかけていました。その姿からはどれだけ時間がかかってもいい、自分の力で行きたいんだという気持ちがよく伝わってきました」
 確かに、「自分の力で行く」ことを尊重することが大切な場合もあります。自分の事として考えた場合、トイレもそうかも知れません。でも、10m先のトイレまで移動するのに、手伝ってはいけないのかなあ。 

 ●「ビデオの養護施設は刑務所のようで恐ろしかった。今は障害のある子が生まれる前に分かる検査もあるので障害者の子を産まないという考えも増えていくのが合理的な方向だと思う。」 
 その「合理的な方向」という考え方も恐ろしいなあ。  

 ●「ビデオを見ていると繰り返し「母親」というワードが強調されているのが気になりました。
(同様の意見の人、他にもいました)

 確かにそうですね。このバリフリ授業の教室の前のコマは「ジェンダー論」ですしねえ(関係ないか)。


2. 条件性弁別による命名の訓練について。
●「・・・それに対して、たとえば「かわいい」「早い」などの形容詞を学習させることはできないのではと思いました。そもそも何を「かわいい」と思うか、どの程度を「早い」と思うのかは完全に主観に依存するし、仮に、多くの人がかわいいと思うものを見せて学習したとしても、学習者はそのものの名前が「かわいい」だと思うのではないかと思いました。」
 まさしく「形容詞」などを「教える」のはなかなか難しいことです。前回の「ランドマークとは何か」という場合では、「相手と落ち合う」という目的(結果)が明らかであり、それに向けての表出の内容は、その時の相手とのやりとりの中で、おのずと第三者からみても妥当な内容に収束していったわけです。一方、形容詞の場合は、あくまで本人の「主観」だから何が正解だか第三者が評定できないという見方もできます。それでも、われわれは「かわいい」という単語をよく使っています。「かわいい」といった単語も、ランドマークの場合と同様に、ある集団の中で相互に使いあうことで次第に特定の収束点に向かっていくのではないでしょうか。確かに、そういう実際の社会的使用を抜きに、単純な「条件性弁別」のみで当該の概念が獲得できるか、と考えた場合、ご指摘のような問題はあると思います。「学習者はそのものの名前が『かわいい』だと思うのではないかと思いました。」という意見は鋭いご指摘で、実際、「色」や「味」についての学習において、そういう事態が生じました(詳しくは次回以降の授業で)。


 ●「野生児」の話はデマであるという説も多くありますが、その研究をうのみにしていいでしょうか。 
 確かに、狼に育てられた、とかいう話はマユツバものですよね。知的障害がある子どもが遺棄されていたのを保護した、ということではなかったかという話もありますよね。ここで問題にしたかったのは、条件性弁別学習といった手法は、その昔からあったポピュラーな手法だということです。詳しくは「アヴェロンの野生児研究(ハーラン・レイン著、中野善達 訳編、福村書店)を参照のこと。


 あ、来週も資料はキャリオーバーですう。