次は修論

marumo552006-12-23

 この時期、修論はすでに書き終わって添削フェイズになった人と、これから実験という剛の者の大きく幅が出ましたね。これから書き出す、これからまとめる、ではなくて、これから実験するっていう人が約2名。
 ま、指導教員の行動パターンは伝染するんでしょう。


 先日、某先端研のセンセと話をしていて、「学生は、よく教授の現在の生活をみて『こんなんでいいんだ』という風に勘違いする。彼ら(教授たち)だって、最初は雑巾がけからまじめに積み上げてここに至っているんだから、今の彼らのマネしちゃダメよってよく言うのよ」という注意をよくするそうです。応用人間でも、大きな声で言ってください。
 ま、ここで対象になっている教授の生活とは、どっかのセンセみたいに、毎日のようにDVDみたり新車の試乗会にいってグッズを集めるとか、食玩を探して京都のコンビニを走り回るとか、そういう人ではなく、一見すると地道にデータとってるわけでも他人の論文も日がな読みこんでもいないのに、論文や著書ををさらさらと仕上げていく、といったそういう生活なんでしょうね。

 ったり前です。わたくしとて、勉強しないで一日を終えることもある、なんていう日は、立命館に来てからです。学部はもちろん大学院の頃は、今の50倍くらい勉強してました。現在の学生さんの10倍くらいです。一見するとね。


 学部の学生さんは、懸命に勉強している先輩の姿っていうのを、見る機会がないのではないか。(実在しないのか見る機会がないだけなのか、という問題はおいといて)。全然、的外れな勉強の仕方をしていても、それを身近で日常的に注意する先輩もいないのではないか。
 先輩と後輩の縦関係での伝播、研究行動の文化の伝播のようなものが、非常に育ちにくい環境であることは否定できません。人数のせいもありますが、空間も大きなネックになっているように思います。ことあるごとに要求してますが、この狭い京都の建築制限の中ではそれもままならない状況にあるのも事実。
 昔は、学生どおしの研究会というのを、粛々とやって大学院生が学部生を指導するという状況が多数あったのですが、最近はどうなんでしょうねえ。博士課程への進学を予定している学生ならともかく(昔は修士へ行ったらもう博士行くしかないみたいなところがあったけど)、就職しようと思っている院生に、他の面倒をみることで自分の実力を増強しようなんてことはあまり発想しにくいでしょうね。

 とまれ、これから1ヶ月で修論をつくろうとする諸君へ。
本気で1ヶ月やれば修論はできます。新記録を作ったり奇跡をおこしてください。しかし今度ばかりは本気でモガキを入れないと修了証書は出ません。指導教員の生活パタンに影響されてはダメです。あれはもう「終わった人」、余生を楽しんでいる人なんで、君らとは全然違う生き物なのです。


 写真は☆先生がくれた八朔の1/2。道沿いになってたということで、僕も自転車で行ったけど、もう手のとどくところに(あるいは通りすがりに何気なくもぐほどの心理的な距離に)ある実はもうなかったよおお、と言ったら半分くれた。物乞い行動。